音符に書けない音を求める ~野村雅美さんインタヴューVol.3~

 ギタリスト・作曲家・抽象画家の野村雅美さん。インタヴューVol.3では、現代芸術の魅力、現代音楽、社会制度、環境音楽などについて語っていただいた。

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現代芸術の魅力は言葉で言えるか

————こういうインタヴューをさせていただいている目的は、現代芸術の魅力をどう言葉で表現できるかを知ることなんです。

 逆の答えになるけど。言葉で表現出来ない言葉以上の美を現したくて音楽や美術をやっている気もするね。音楽学の人が言葉を使って音楽を論じる訳だけど難しい作業だろうね。センスも必要だろうし。こないだ北條さんがオレの音楽について「24の音階以外の音階で出来ている」と云ってくれたけどあれは嬉しくてね。俺の音楽の核心部を聴き抜いてくれたんだな流石だなと思って。ああ云う表現で批評してくれる事はなかなかないからね。癒されたとか綺麗だったと云われる事は頻繁にあるけど。勿論それもそれで充分嬉しいんだけどね。

————そういう24の音階以外の音階を感じるという表現を思い付いたのは、きっかけがあるんです。あるダンサーの方に、コンテンポラリーとはどういうものと思っているかと聞いた中で、色でいうと誰も見たことのない色を求めるものです、と言っていたんです。そこから、野村さんの音楽についてああいう言葉を発想したんです。

 俺の場合、求めていると云うよりどうなのかな。曲の構成音として倍音を重視していてね。作曲の途中で倍音の邪魔になる音は極力消していく。それでシンプルな音の構成になるんだけど倍音も音符とは違う音が鳴っているモノ。そう云う不可視的な音が欲しくてやっているのかも知れない。俺は曲創りに理屈がある訳でなくてただひたすら創りたい曲を創っていて。でももしかしたら倍音や倍音以外の音の要素も求めているって事になるのかもね。また潜在的な音の要素としてクセナキスやノーノみたいな好きな作曲家のモノも入っているのかも知れない。

————作曲される中では、やはり色々聞いてきた中で滲み出てきたものを曲にする感じですよね。

 それはあるだろうね。ブーレーズは「人間は音楽を聴いて音楽を創るのです」って云ってたし。俺の10代の頃は音楽媒体と云えばLP。最初に買ったLPがベイ・シティ・ローラーズの。ビートルズはポップスの頂点であり同世代的にはアイドルだっただろうけど。ローラーズはもっとアイドルだった。「サタデー・ナイト」って曲が全米チャートで1位になって世界的になってね。彼らはスコットランドのエジンバラ出身のバンドだからその当時「タータン・ハリケーン」なんて云われて世界的に一世を風靡していた。兎に角ポップでキャッチーなメロディーの曲をやるバンドでね。
 で俺の曲も度々キャッチ―だって云われるんだけど。エレキのコンテンポラリー・ジャズ系の曲達もそうで。12音技法的に書いた曲でさえキャッチ―ですねとか云われたり。その辺はローラーズの影響かなってのがある。またキャッチ―である事に堂々としていようとも思ってるしね常に。ポップならポップでいいやと。とは云えバリバリの現代音楽も好きな訳で。ローラーズからクセナキス迄上下なく平等に自分の中に入っているんだと思う。そしておそらく他の奴はこれはやってないだろうなと云う独自性には自信を持っていて。俺の前にこれやってる奴いないだろう俺がオリジナルだ。なんて烏滸がましくも常時思っているね。

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開放感、前進性、革新

————現代音楽の特徴を自分なりに考えていまして。この現代社会においてアクティブになれる感覚、開放感が一つの特徴かなと。クラシックのロマン派などの、ホールでオーケストラで盛り上がることで開放されるというのとは違う開放で、日常生活に沿っている開放感という面があるかなと思っています。現代音楽全部というわけでもないんですけど。今まで自分が聴いてきたものと違う新しい感覚の音楽を聴いて開放感感じるというのは、現代音楽にあるかもと思います。

 開放感。そうだなあ。確かにあるかな。創った後の開放感は確かにある。聴いていてもあるけど。爽快感を伴うそれではなくてどちらかと云うと苦しみを伴う開放感だけどね。と云うか前進性や革新。そこが現代音楽とか関係なく「創る」上では必要だと思っていて。だから誰もやっていない事をやってやろうというのがある。逆に云うとこれなら絶対聴いて貰えるだろうと媚びる音楽じゃなくてね。まあそう云う音楽は仕事ではやる訳だけど。ともあれ人がやってない事をやってやると云う心構えがある。それで曲を創って成就された時の開放感と云うのは確かにあるね。
 クラシック系音楽は結構色々生演奏を聴いて来てね。マーラーの交響曲は全曲生演奏聴いたし。安永徹さんのヴァイオリンでベートーベンの全10曲のソナタも聴いたし。1日でドビュッシーのピアノ独奏曲を全部弾いた演奏会にも付き合った事あったなあ。小沢征爾さんのブラームス交響曲チクルスも。でもやっぱ生演奏も現代音楽を聴いている方が大概楽しいね。「なんだこの曲は!」なんて思いながら聴いている方がね。山根明季子さんの「水玉コレクション」を聴いた時なんかも。ただチャカチャカチャカチャカと音達が鳴らされるだけなんだけどこう云うのは今迄なかったよなって感心したね。

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現代音楽を広めるには

————もし現代音楽の面白さを、それを知らない子供に説明するとしたらどうされますか。

 どうしても子供には解り辛いと思うんだよね。小さい頃は味覚が発達してないのと一緒でいわゆる音楽耳も発達してない訳で。子どもは甘いものならすぐ食べるじゃん。でもゴーヤみたいに慣れないと美味いと思えない物がある。最初食べた時はただにがいだけだったのに3回4回食べて続けている内に「あれ?美味いかも?」と思えてくる。そう云うものじゃないかな現代音楽も。そんな説明の仕方が子供とか若い人への説明としてはいいんじゃないかな。

————ネット社会では、パッと見てわからないとスルーされるわけですが。現代音楽を広める方法とかは何かありますか。

 現代音楽も広める難しさあるよね。でも世に出るための方法はあるかも知れないね。美術界を近代史的に想うと。ウォーホールは勝手に有名人の写真に色を塗って作品にして。それで裁判になり負ける訳だけど新聞等マスコミに名前が載って全米で名が知られる様になったりとかね。草間彌生さんもあれは1960年頃だっけ?全裸でニューヨークのセントラル・パーク歩いて警察に捕まったりとかやってる訳よ。キース・へリングも勝手に壁に絵を描いて有罪になったけど。有名になったら今度は金貰って壁に描いてたりね。
 そう云う手もある訳でそれらは完全に売名行為。バンクシーもそれに近いと俺は想うね。話題性の作家という気もするし。日本でもそう云うやり方が結構脈々とやられている。村上隆さんも世に出る前はフィギュアの人形ばら撒いたりとか。チンポムなんかあれは酷かったけど。岡本太郎さんの大作に描き込みなんかしたりね。そう云うある意味汚い手はあるよね。俺は絶対使わない手だけど。
 で正当的に広めるとすればどうだろう?既に常識となっている動画配信に頼るとか。正直答えは解らない。でも結局は素晴らしい作品を創りさえすればそれが作者の死後であれきっといつかは世に出る(広まる)んじゃないかなとも思う。

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芸術家にカケをしてほしい

————ご自身が活動されてきた中でとか、共演されてきた人を見てきた中で、世の中にあったらいいと感じているシステムは何かありますか。

 それはあるね。例えばニューヨークは芸術の支援が厚くて芸術家に住む処を提供したりとか。芸術やっている人を審査してそれに通った人には公的資金で援助する。フランスにもあると聞いた事があるけど。根本にあるのは芸術なんだから食えないでしょう?でもひょっとしたらこの芸術家を支援しておけば未来のこの街の観光資源になるかも知れない。ならばそいつを支援しておこうと云うカケをしているんじゃないかな。美術の世界ではポロックやリキテンシュタインやウォーホルやロスコ等々ああ云う人達の作品が世界中からニューヨークへ人を集めている。ダンスではマース・カニングハムの公演が人を集めるし、ジャズ(ジャズマンも支援対象)はニューヨークがメッカだしね。
 審査基準は芸術をやってるかどうかの1点。音楽家は録音や演奏経歴。画家はポートフォリオや個展歴。それらを提出し「ああ。あなたは芸術やってますね」と審査が通れば生活の支援をして貰える。これは芸術に限っていて、ポップスとかブロードウェイのミュージシャンはエンターテインメントだから駄目と線引きされている。オペラは芸術だからと支援がある。何故オペラには支援が出てミュージカルは駄目なのかずっと議論があるらしい。そんな風な稼ぎがなければ支援すると云うのは東京にはないよね。

————日本でそういう制度ができないのは何ででしょうか。

 それは認識の問題かもね。ジブリとかアニメは財産になるとわかったから支援される様になったけど。海外の企業は会社に現代美術が飾ってある事が多くてそれをネタに話すところからビジネスの会話が始まったりする。その点現代美術は日本でもそうなって行くかな。売れている作家もいるし。入江清美さんって知人の現代美術家がいるんだけど。彼女の作品はレストランとか色々な処に売れていて。つまり現代美術の必要性も高まって来ている気がする。そう云った公的ではないけどビジネス・サイドから支援の制度が現れるかも知れないね。

————作曲家の近藤浩平さんがいるじゃないですか。あの方が大阪のオーケストラと組んでやろうとしていることがあって。音楽の地産地消という考えのもと、地元のオーケストラを育てて地元の作曲家の曲をやってというようにしようとしているみたいです。

 それはいいね。他にも大がかりな感じのあるかな。

————美術ではヨコトリとかありますけど現代音楽でやるのは難関な気が。

 でも毎年夏にやってる「サントリー・サマー・フェスティバル」。チケット代が安くて世界的な現代音楽が聴ける。あのフェスは結構好きだな。N響の「ミュージック・トゥモロー」年1回だけやってるやつ。あとはオペラ・シティの「コンポージアム」。あれでは友人の作曲家木下正道さんが賞を取って驚いたっけな。その木下さんも関わっている福井県の「武生国際音楽祭」とかも。
 現時点では現代音楽を聴こうとしている人はやはり音楽やっている人が多いのかな。ただ聴いているだけの人に広めていくのにはまだ時間かかるかもね。マーラーがこれだけ演奏される様になったのは20年、30年前から。著作権切れてはいるもののそれ迄は演奏は難しいし聴き手も長時間休憩なしで聴く耐久力がなかっただろうから。その後演奏技術が上がって来て、聴き手も2時間聴いて耐えられる様にになって来たから、現在のマーラー状況があるとも云えそうだし。現代音楽も未来の人に託すしかないかな。1970年の大阪万博の話だけど。武満さんや高橋悠治さんやクセナキス等が曲を委嘱されてね。鉄鋼館ってパビリオンで現代音楽の初演コンサートがあったんだけど。その委嘱料だけで武満さんは家建てられたんだって話も聞いた。そう云う金の流れも時と場合によればあるのかも知れないね。

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環境音がよりよく聴こえる音楽

————昨年(2019年)、関西の大学で演奏されたのは、どういうものだったんですか。

 京都精華大学に小松正史教授と云う友人がいて。現在はそこのポピュラー音楽部の教授なんだけど、ピアニストで作曲家でもあり。学術的な専門は環境音。過去何度か俺と共演もしていて。CDも精力的に20枚位出版していて。彼の生まれ育ちが丹後の方で京丹後線の駅のホームで彼の曲が流れていたりも。
 そんな彼に授業中でギター弾いて話して貰えますか、と提言されて2度程登壇させて貰ってね。彼と俺が繋がる切っ掛けと云うか要素になったのがサウンド・スケープの概念。そうジュリアン・マリー・シェーファーのそれね。小松さんはそれを専門的に学んだし、俺は俺で「サウンド・エデュケーション」を熱烈的に読んだりして。俺が自分の音楽は環境音と共に在りたい、と考える様になった切っ掛けでもあり。それから野外で演奏するのが好きになっていったかな。ヒグラシ達が合唱している森の中でヒグラシ達とコラボ(結果的に)したり吉祥寺の街の音が聴こえるバーの片隅で弾いたりとか。
 その小松さんの講義の最中に教室の隅っこでギター弾いたりしてね。それが許される大学だから精華って素晴らしいなと思うんだけど。その際ある学生から「野村さんの音が在る事で小松先生の話がより良く聴こえた気がします」と云われたんだよね。あれも嬉しかったな。その後俺の講話では、イヤフォンやヘッドフォンもしくはライヴの場合PAで造った大音響で耳を満たすのも楽しいけど。会話や環境の音(雨や風や街の喧騒等)と共存する音楽もあるんだよと云う話をして。その後実際にギターを弾いてね。

————京都芸術大学の藤本由紀夫さんが、環境の音はそれを音楽だと思ったとき、思った人は作曲していることになるので、誰でも作曲家になれると言っているんですけど。

 それはシェーファーの概念そのままと云えそうだね。環境音をいかに音楽的に聴くかも「サウンド・エデュケーション」に書いてあるから。サウンド・スケープはそう云う事も云いたいんだよね。そこら辺の音をただ聴くんじゃなくて音楽的に聴くと云うのも提唱しているんだよね。小松さんは京都の鴨川の音を採取して自作のピアノ曲の録音にダブして使ったりしていて。曲は純粋に調性的で実に素直な曲達を沢山書いているよ。

最後に

 Vol.1からVol.3迄野村雅美さんのインタヴューをお届けした。野村さんが一貫して述べているのは。他者のやっていない独自の音楽をやる事だ。楽譜に表記しにくい音楽であるインプロ。記譜された音ではないが鳴る音である倍音。繰り返しの中で楽譜には表記されない揺らぎを持つミニマリズム。いずれも音符に書けない音達。それらが野村音楽の源泉である。そのスローテンポの最小表現主義かつ反復性の音楽はダンサーから演奏家等多くの表現者を包み込んでいる。

音符に書けない音を求める~野村雅美さんインタヴューVol.1~

 音符に書けない音を求める~野村雅美さんインタヴューVol.2~


◇本インタヴューの主旨は、現代芸術活動のアイデア、現代芸術の魅力をどう表現できるか、また社会にあるとよいシステムについて、関係者から話を集めること。それを記事にして共有することにより、現代芸術活動のやり方の体系をつかみ、うまく社会の中で演奏家なり作曲家なり表現者が動くための素地をつくることにあります。引き続き各演奏家、作曲家等の方々にインタヴューをしていきます。


                   2020/8/29 渋谷ルノワールにて

           話し手:野村雅美 ギタリスト・作曲家・抽象画家
           聴き手:北條立記 チェロ奏者・ライター

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