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自分で考える

世の中には2種類の人間しかいない。自分で物事を考えられる人間と、考えられない人間だ。

なぜ自分で考えることは大切か

「なぜ自分で考えることは大切か」この問いに対する答えはこんな感じだ。

幸せは人によって違うから

人によて幸せは違う。これに気付いてすらいない人も意外と多いんじゃないだろうか。一昔前は結婚して子供を産んでマイホームをに住むみたいなのが一般的な幸せと考えられていたんじゃないだろうか。知らんけど。でもそれを実現して本当に幸せになれた人はどのくらいいるのだろうか。人の価値観で考えられた幸せの形を実現したところで本当に幸せになれるとは思えない。だからこそ自分で考えて物事を判断して幸せになる必要がある。

学校教育

これは完全に主観だが自分で考えることのできる人間は自分で考えることのできない人間に比べて極端に少ない。これは学校での教育に原因があると思う。高校まではほとんど自分で考えることを教わらない。決められた時間に決められたことをやるだけだ。他の学校は知らないが、自分が通っていた高校では勝手に国公立に行くことが全てのような洗脳を受け、センター試験の勉強を必死でしていた。僕が行きたかったのは私立なのに。今思うとなんとも馬鹿馬鹿しい話だが、当時はセンター試験の勉強は絶対にしなければいけないものだと疑う余地もなくただ闇雲に勉強していた。同級生も大半は国公立が全てだと思って国公立の大学に行くために勉強をしていたと思う。私立だっていい学校はあるし、そもそも大学に行くべきかどうかもちゃんと自分で考えるべきだ。それなのに高校時代の僕はそれをしなかった。今更文句をいうつもりはないが、大人って子供にいろんな可能性を定時するべきじゃないの?とは思う。他に部活動でも顧問の先生のいうことは絶対という世界で生きてきた。本当は全然そんなことないのに。

でもまあ先生がそうしたくなる気持ちも十分にわかる。1クラス40人近くの人数がいるんだからそれを統率するためには画一化して枠に閉じ込めておくほうがずっと簡単なんだろう。

僕が自分で考えるようになったきっかけ

僕がある程度自分で物事を考えるようになったのは大学に入ってたくさんの本を読んだからだろう。本にはこの世の真実っぽいことが書かれている。メディアでは広告主のためのコンテンツを作らざるを得ないのでどうしても広告主にとって不都合な真実は伝えにくい。これは構造上仕方のないことだ。自分たちにお金を払ってくれる人のために働くことは当たり前だからだ。それに対して本というのは、基本的に広告主はいないのでテレビやその他メディアに比べて真実を書きやすいのだと思う(書いたことないから断定はできない笑)。もちろん著者と出版社にとって不都合な真実は書かれていないだろうが、いろんな著者や出版社の本を読めばその問題は解決できる。

このようにたくさん本を読むことで、学校やメディアで報じられることのないこの世の真実をたくさん知ることができた。これにより自分で考えるための判断材料が増えたから自分で考えることができるようになったのだと思う。

他にも歴史を学ぶことで人間について考えることも増えたのも1つの要因かもしれない。

ちょっと話逸れるけど言いたいこと

最近巷ではいろいろな差別をなくそうとする動きがある。確かに差別をなくそうというのは聞こえが良い。しかしその差別をなくそうと言って良いる人たちの中で一体どれだけの人が自分の頭で考えて差別はよくないことだと結論を出し、差別をなくそうとしているのだろう。そして差別撤廃を訴えている人の中で本当に差別がなくなったときに今より幸せになれる人がそれくらいいるだろうか(もちろん実際に差別をされている側の方達は遥かに行き易くはなるだろう。てかこの世に全く差別を受けてない人なんて果たしているのだろうか)。僕にはそれほど多いとは思えない。ただ単に聞こえが良いからとか、差別に反対しとけば先進的な人間に見られることができるという考えで差別撤廃に賛同している人が多い様に思えて仕方がない。

だからこそ自分で自分の幸せを考えてそれを実現するために日々行動したほうがいい。そのために本を読んだほうがいいだろうし、歴史を学んだほうが良い。個人的にはそう思うよ。

終わりに

自分でもこの文章はひどいなと思います。言いたいことが全然まとまってない。伝わりにくいとも思う。ここまでこんな汚い文章を読んでくれた人本当にありがとうございます。いつか飯奢ります。多分。



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