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#24 「死」について想うこと

Hisaと申します。
このnoteでは、日々の思ったことや気づいたことについて書いていく日記になります。ぜひ最後までご覧いただけると嬉しいです。

本日は24記事目の投投稿。
5月も半ばが過ぎ、気づいたら6月になってそうなそんな勢いだなと感じる今日この頃。

そんな時間の流れが早い時期ですが、
本日は【「死」について想うこと】というテーマで書いていこうと思います。


いつか訪れる共通の瞬間

「死」と聞くとものすごく怖いようなイメージを持たれる方もおおかもしれませんが、私自身はそんなことなく、むしろ世の中の生きとし生けるものすべての方に訪れる共通の瞬間であることを認識しています。

生き物は生まれては死ぬというルートをすでに運命づけられてこの世を歩いていく生き物。そんな事実を話せば

「まぁ~そうだよね~。」

と思うのが一般的な反応と言えるでしょうか。
ただ、このいつか訪れる共通の瞬間を、結構目見ぬふりして生きている人も少なくはないのではないかと思います。

確かに死ぬということは、この世から去ることを意味するため想像もできないからこそどうなるかわからない恐怖というものが生まれる。さらに、そればかりに気を取られては生きているのも辛くなってしまうので、「死」というものから離れる傾向にあるのではないかと思うのです。

ただ、このいつか訪れるものについて、私たちは軽視して生きていっていいものなのでしょうか。


「死」についての3つの反応

ひと昔前ですが、「DEATH」という本を読んだことがあります。

こちらの本はイェール大学の有名な教授が書かれた本で、「死」についての道徳的な内容が書かれた本になります。

この本の中で最も印象的に残った内容が、

【人間が「死」について聞いたときに取りうる3つの行動】

という部分です。

結論から言うと、人間は「死」について聞いたとき、

  • 順応:「まぁ~そうだよね~。」ぐらいの反応で受け流す。

  • 拒絶:「なんでそんなこと言うんだよ!」と反論する。

  • 無視:「ふ~ん…。」と聞き流す。


の3つの行動のどれかを取るのだと。

確かに、自分も死についての話なんて誰にでもするわけではないが、いざこういう話をすると、大半の人は上の3つのどれか下の反応を示す。

そして、これらの反応に共通して言えることは、
「死」について真正面から考えていないことである。

常に考えろよ!というわけではないが、
いつか訪れるその瞬間について、あまりにも軽率な気もする。
そんな私もこの「死」については、こうした記事を書いたときには深く思い出すが、気づいたら遠いどこかの存在となっていることはしばしばある。

いずれか訪れるこの「死」の瞬間を人間は忘れてしまい、ましてやそんな恐怖を思い出したくもないからこそ3つの行動をとってしまうのだと思う。


その瞬間が訪れたときにどう思うか考える

「死」という瞬間は突然やってくる。

その瞬間が来た時に、自分は何をしてきて・どのように過ごしてきたかをきっと振り返る。俗にいう走馬灯のようなもの。
その時に大半の人たちは、「もっと自分の気持ちに正直になっていればよかった…。」と後悔して去る人が多いのだとか。

自分自身も過去を振り返ると、「このままでは死んだら絶対後悔するな…。」という気持ちがかなり強く張り付いている。
そういう気持ちを抱いているなら、まず自分は何をしたいのかをぜひ書き出すことから始めるのだ。

自分が死ぬまでにやりたいことをとことん書いて、
現状でそれを実現できる術がないかをひたすらに探す。どんな形でも一つや二つは見つかるものだろう。

そして、その方法が見つかったのなら、即実行に移すべきだ。
休んでいる時間がさらにこの先の後悔を増幅させてしまう結果になる。
ひたすらに走り、そしてやり抜いた先に大きなゴールがあり、そこに到達してからゆっくりと頑張った自分を労わってあげればいい。

私自身もその気持ちを忘れていたなと思い、
この記事を書いてこの後すぐにやりたいことを書いて即行動に移していこうと思う。


【まとめ】最後に残したいものは何か

ということで、本日は「死」をテーマにして書いてみました。

古代ローマでは「死を忘れるな」という意味の、

【メメントモリ】

という言葉を残しています。

今よりも大昔にもそういった言葉を残しているわけです。
過去の偉人たちや歴史から多くのことを学び受け入れ、それを決して忘れずに、この先後悔のないよう生きていきたいものです。

いや、生きていきます!


ということで、本日はここまで!
お疲れ様でした~🌙


Hisa

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