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音楽の価値観の変貌

もう昔の話はしたくない。と言って今日のタイトルは昔を振り返る事になるのだが。前回、「続きは僕の大学時代での音楽人たちとの出会いについて書く。」と言って締め括ったのだが、もうそれもなんとなく億劫になった。音楽人との出会いなんて名前を出せばキリがないし、名前の出てこなかった人に悲しい思いをさせるのも不本意だ。なのでいずれ、書かなきゃいけない時が来たら書く事にする。

僕が今日書きたかったのは、最近感じている音楽文化の変貌に対する違和感だ。

僕の青春時代(大まかに2000年〜2011年)は、あらゆる街にまだロックのかかるCD屋が溢れている頃で、”音楽”といえば、ロックでもポップスでもヒップホップであろうとクラシックであろうと、もっと1枚の CDと向かい合って大切に聴いていたものだった。丁度、今で言うサブスクが解禁になった頃からだろうか?突如として渋谷のセンター街からHMVという大きなCDショップが消えた。(上写真、2010年6月22日撮影。)

当時は、「そんなにCD売れてないんだ。へぇ。」くらいな感覚だったが、今この2020年になってようやく、サブスクリプションがどのように人々の音楽との向き合い方を変えたのか、ようやく見えてきたのか、それに対して少し感じるところもあって筆をとった。

当時から、"チルく"て"流しておく為"だけの音楽というのもあったが、今ほどではない。作品を作るとなれば、アーティストもそれなりに聴いてもらう事を意識して作っていたと思うし、今もそういうアーティストはいる。しかし、音楽文化として"作品と向かい合う"という文化は、どこか遠い昔の事のように思われる。

昨今では、何か作業するときに、それから何か紹介する為の動画のBGMとしての音楽が意識的に作られているケースが多いように見受けられる。そしてアーティスト側もそれを意識して意図的にあまり感情移入せずに聴けるものを作っている気がする。何度も再三申し上げて恐縮だが、それは昔にもあった事だ。ただ全体として、その作品と"向かい合って"聴く音楽の価値は衰退する一途を辿っている気がしている。

それは他でもない、我々の音楽的ニーズが変容して、巨大な音楽マーケティングの対象もそれに合わせて変わってきたからである。

"良い"とか"悪い"とかの問題じゃない。ただ、本腰を入れて音楽を作ってきた側からしたら、なんとも滑稽な話に過ぎないのである。

「僕は真面目に音楽をやってきたから世間の人にもその熱量を感じ取ってもらいたい。」などと言えるほど偉くなったわけではない。だがしかし、音楽の重み、一曲の重みを世間一般の人々がどれだけ感じ取れるかというのは、大きな指標であり、本来音楽家にとって目標とすべきところを大きく左右する事柄にもなりうる。

「人気が出ないから音楽を辞めます。」という人は沢山いる。逆に「人気はあっても他の事が忙しいから音楽を辞めます。」という人も沢山いる。殊、コロナ危機にあって、行き場を失い、音楽を辞する決意を固める者も少なくないであろう。いずれにせよ、音楽文化はその変貌の度合いをさらに深め、かつてないスピードで変わっていくであろう。

人の"魂"や"伝えたい事"が軽んじられる社会になって欲しくはない。もしそういう流れがあるのだとすれば、僕たちは何らかの形でそれを変えて行かなくてはならない。良い作品やアイデアがそれを打ち破るなら、それに越したことはない。と、昔見た空の色を思い出しながら、今も悪あがきを続けて行こうと思うのである。

2020年6月21日(日)、朝

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