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3.11の記憶

10年前の3月11日(2011年)、僕は就職先の健康診断を受ける為に横浜の関内にいた。受け終わった後、ファーストフード店で食事をしていた時に揺れが来た。店内はオモチャの様に揺れ、窓の外ではバスがぐらんぐらん揺れて、運転手さんが外の車に向かって何か言っている様だった。揺れが収まった後、外に出ると往来の道行く人々は皆、携帯電話で何か話していた。

とりあえず駅に行くと電車がストップしているという事だった。慌てて家に電話をかけようとするも回線が混んでいてかからない。

しょうがないので街をぶらぶら歩くことにした。電気家具屋の前を通った時、店先に置いてあるラジオから“宮城”という単語が聴こえてきた。

僕は、昔ライブをしたライブハウスのあった場所まで行ったが、そのライブハウスはもう残っていないのか、僕の探し方が浅かったのか見つからなかった。

しょうがないので、ファーストフード店を訪ね歩いてみたがどこも満席でなかなか入れなかった。夜になり、ようやくまた別のファーストフード店に一席座ることが出来たが、閉店時間になるとまた出なくてはならなかった。

行き場もないと諦めかけていたが、横浜市庁舎に行くと、ロビーに居ても良いということになって、ここで一晩過ごすことにした。暫くすると、消防隊の人達が毛布と床に敷く為のダンボールを持ってきて配ってくれた。確かに3月の夜はとても寒かった。ダンボールを敷いて、毛布を羽織るも、寒くてなかなか寝ることが出来なかった。そのままだだっ広い市庁舎の床で30分〜1時間くらい寝た。幸い喫煙室があったのでそこで時間を潰して朝を迎えた。

電車が動き出したとの連絡は確か市庁舎内のアナウンスか何かがあったのだと思う。急いで市庁舎を後にし、やっと動き出した地下鉄の電車に乗って帰宅した。帰り道、晴れた空の下、町内のサイレンが鳴りっぱなしだったのをよく覚えている。

家に着いてから昨日起きた事をテレビで見た。

その後、卒業式も無く大学を卒業した僕は、すぐに社会人生活が始まり、あの日の事をゆっくり振り返る時間が当時はあまり無かった。

あれから10年が経ち、僕もすっかりおじさんになったが、今でも昨日のことのように思い出される記憶。夜のファーストフード店で、当時好きだった人の事を思った事。ガラケーしか持っていなかった僕は彼女にメールを送ろうかどうしようか悩んだ事(幸い彼女は無事だった。)、津波に押し流される東北の町を翌朝テレビで見た時の無力感、それらが一体となってこの日の記憶は僕にとって、今でも鮮烈で何にも例え難いものだ。

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