モーツァルトとアイドル推しと

YouTubeのおすすめに、映画『アマデウス』の解説動画があがって来たので、何となく見てみた。

解説によると、宮廷楽長のサリエリが、ある種、凡庸な才能の人として、しかし、モーツァルトの真価を見抜いている殆ど唯一の人物として、描かれているそうだ。

高校生の頃に、音楽の授業で一度観させられたきりなので、アマデウスがどんな映画だったかは余り覚えていないけど、この映画をベースに18世紀の音楽模様や才能論を語られるのは、少々こそばゆくって、アマデウスという映画自体が、何か質の悪いギャグだったのかな、とすら思えてしまう。

それでも、動画の弁を信じるとして、サリエリという人が、この映画で描かれている様な、そんな低い次元でモーツァルトの天才を理解していたとは到底思われないし、そもそも、モーツァルトの本性を描くならば、サリエリよりもハイドンを、或いはコジェルフを出さなくっちゃあ、余りに寂しい。

けれども、アマデウスという物語はエンターテイメント、フィクションなのだから、サスペンスとしては、サリエリは確かに適役であったと思う。

画中、サリエリが背負わされたものは、音楽史に登場するアントニオ・サリエリその人ではなかった。

文化の進歩を無邪気に疑わない僕らが、後世からモーツァルトの時代を眺めて、往時の風俗通念を無意識に軽蔑する様な、慢心の矛先そのものに違いない。

当のモーツァルトが背負わされたものだって、洋楽史上に凛然と輝く一個の大才というよりは、須らく天才が背負わされるのは道化役であって、その概念が再度擬人化されたに過ぎぬものだ、と言ったって良さそうだ。

このくらい明け透けに描いてやらなきゃ、市井の感性には、モーツァルトの才能なんてどうせ分かりゃしないでしょう、と啓蒙思想をお仕着せられた感も、漂って来る。

勿論、改めて、映画の本編をきちんと観たならば、そんな思いには至らない筈なのだけれども、解説なんてものは、やくざなものだと相場が決まっているのだから仕方がない。

アマデウスという映画に、本当に垣間見るべきは、如何にモーツァルトが特別な才能だったかじゃなくて、寧ろ、如何に普通の人間だったかの方だろう。

今年の夏アニメは、スカッと爽快、気持ちいいくらい軽くって、他人には視てるなんてカミングアウトも出来そうもない様な、令和日本のテイスト満載な、学生生活をキラッキラにスクラップした、しょうもない名作がなくて詰まらないな、と残念に思っていたら、何事も、隈無く丁寧に探してみるもので、素晴らしい作品を一作見付けた。

『神クズ☆アイドル』

多分、そんなに作家性もない、ノリで癖を描いた様なギャグ・テイストの漫画作品が、世相にマッチしたらしく、めでたくアニメーション化されました、といった感じで、当世風に言えば、界隈とか沼とか尊いとか、そんな風なものを描いた作品、とでも言う所だろうか。

やる気なしのグズなアイドルに、不慮の事後で死んだ神アイドルの霊が乗り移り、トップアイドルを目指していく、というストーリーを装った、文化人類学な癖作品。

勿論、フィクションだ。

アイドルするという事、それを推す事に命を捧げるという事、この二つは、当世が行き着いた最も神聖な精神生活に違いないとは常々思っているのだけれども、今一つ、どんな世界なのか垣間見る甲斐性がなくって分からずにいた。

神クズ☆アイドルは、推し活、アイドル・オタ、そういった思想活動に疎いに人間に、分かりやすく世界線を指し示す、とっても啓蒙的なアニメで、観ていて、自分が生きている時代を初めて実感した様な気持ちにすらなった。

ある種、自虐的に、時には狙って寒く、シュールに、コミカルに、諧謔をもって、安易なテンプレも駆使しつつ、けれども、心底、慈しみながら、アイドルと推しを笑っていく。

18世紀の音楽シーンを二百年後にアマデウスという映画で覗き込んで高揚する気持ちも、きっとこんな感じなのだろう。

それをリアタイでやるメタが当たり前の風俗として、すっかり市井に根付いている現代社会を、高邁と観るべきが、それとも、頽廃を嗅ぎ分けるべきなのかは、それこそ、後世の仕事だか知らないけれども、凡夫に生まれて21世紀を実感できる瞬間なんて、こういう作品に不意に出会した時くらいしか、味わえるものじゃない。

この世界観はもう、サリエリでもモーツァルトでもなくって、ディッタースドルフを聴くようなものだと思う。

18世紀のオーストリアの音楽シーンにおいて、ファッションの残虐さに、徹頭徹尾食い尽くされた真の寵児は、誰よりディッタースドルフであったから、あのある種、能天気で、無邪気で悪びれない音楽に、祇園精舎の鐘の音を聞き分けたってよい訳で、そういう、もののあわれは、当世ではアイドルの界隈に立ち込めている。

どこか田舎振りなウィーンの音楽の高邁な喧騒よりも、気取って着飾ったパリの音楽にある猥雑さの方が、18世紀の音楽としては好ましく思う事がある。

その後のビーダーマイヤーよりも、余程、親近感を持っている。

案外、どちらがより素面な音楽かは、怪しいものだと考えている。

しょうもないものを劣化として片付けるのは、確かに、合理的で、鋭敏な知恵には違いないけど、そんな界隈に蠢く人等の持つ強かさには、これはまた、鈍重な哲理の一つもありそうで、天才崇拝にはない、流行礼賛の闇が広がっていて、なんだか余程リアルじゃないかと思う。

モーツァルトの音楽は、パリへのプロモーション遠征に帯同した母親が病死したの契機に、恐ろしく暗い影が射すようになったと言われている。

それは、時代の様式というよりは、心中の発露として、今日、我々の心には悲痛な叫びとして響く。

往時は、そういう音楽は、必ずしも流行らなかった。

誰もが、当たり前に軽薄に生きていた訳ではない。

音楽に求める役割が違っていただけで、病んだ作品にこそ天才を聴くなんて、寧ろ、当世の闇こそ深いものがある。

最近は、サリエリの音楽も随分手軽に聴ける様になって来た。

それは、とてもご機嫌な音楽で、時代を背負った人の矜持のある、だからこそ、時空を容易には超え難い、地に足の着いた、居場所があるだけに、飛べないものだ。

サリエリの音楽が好きかと言えば、正直に言って苦手だ。

この世代のイタリア人音楽家の書く音楽は、余程、コミカルに振り切ってない限り、押し並べて余り好きじゃない。

オーセンティックも過ぎればデカダンと言いたいくらいに、王道が爛熟した、つくづく洋楽らしい洋楽を書く人が多いと思う。

推しはもっと他にいる。

どんなクズ・アイドルにも、担当はいるそうだ。

そういう人等のマインドは、結構、分からんでもないな、と思いつつ、平然とハイドンを聴いたりしている。

何だかんだ言って、結局、箱が好きなんだよな、18世紀という箱庭が好きなミーハーなんだ。

だから、推し活とか、担当とか、そんな高邁な精神は、とても自分には務まりそうにない。

推し活というのは、端的に言えば、価値基準は自らが握る、という事だと、神クズ☆アイドルを観ていて思った。

推しは生きているだけで尊い、それは信仰というよりは、覚悟じゃないか。

スヴィーテン男爵と言えども、そこまで強い信念があったかは、分からない。

寧ろ、柳宗悦の末裔という感があって好い。

推し活、それはとても尊みが深い業である。

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