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CD:大バッハの長男のポロネーズを聴きながら、因果。

今日、単にバッハと言えば、音楽の父、ヨハン・セバスチャン・バッハか、国際五輪委員会の長、トーマス・バッハのどちらかだろう。

けれども、18世紀も後半の欧州では、ドイツ語圏ならば、バッハと言えば、セバスチャンの次男のエマヌエル、ブリテン島では末っ子のクリスチャン、という案配だったらしい(実際には、そんな乱暴に片付けられる様なものじゃあない筈だ)。

それが、逆転したのは、19世紀の半ばくらいとされている。

偉大な音楽家のお父さんから、音楽のお父さんにまで格上げされ、それは、概ね、今日にまで引き継がれている。

大バッハの成人した息子は、例外なく4人とも音楽家になっていて、才能は一番あったけれども性格に難ありだったらしい長男のフリーデマン、生前からバッハ兄弟の中では才覚に劣ると囁かれていた三番目の息子のクリストフ・フリードリヒも、決して、評価されていなかった訳ではない。

こんな風に書いたら、私の手癖からして、今日の主役は、クリストフ・フリードリヒが定石なのだけれども、そこは、少し外して、フリーデマンを。

フリーデマン・バッハ、私は、四兄弟の中では一番苦手だ。

移り気な音楽で、気紛れ、不安定なのは、これはある種の、往時のファッションだろうとしても、才気あり、根気なし、自信あり、という風体には辟易させられるものがある。

平凡じゃないんだ、この人の音楽は、立派でもないけど。

12のポロネーズは、フリーデマン・バッハの作品の中では、よく知られている作品で、フリーデマンとしては、整った調べを奏でている音楽。

スティーヴ・バレルによるクラヴィコードの演奏にて聴いた。

先日、取り上げた、アコーディオン・バッハで、クラヴィコードを連想したら、何だか、クラヴィコードが聴きたくなってしまって、そんな折に目についたので、思わず飛び付いてしまった一枚。

割と淡々と弾いていて、クラヴィコードの特質を殊更強調する事もなく、才覚爆発とは対極にある、博物学的な見識を思わせるアルバムだった。

フリーデマン・バッハの音楽の異様さって、案外、弾き手の演出過剰だったのかな。

そういう事は、譜面をきちんと読む人に委ねるとしても、こざっぱりとしたポロネーズだと思った。

フリーデマン・バッハに抱いていた先入観が、上手く機能してくれそうにない。

平生、先入観と実感とでは、先入観の方を僕は尊んでいるのだけど、実感に流されてしまいそうになる。

困った事だ。

実態を問うならば、現実は先入観とも実感とも違う、自分の外側にあるものだから、そんなものは役に立たないのはよしとしても、先入観を裏打ちしたくて、態々、実体験したというのに、全く実感が伴わないというのは、これは困った事になってしまって、面白かった。

当てが外れてこそ面白いものが人生にある、それはとっても贅沢な事だな。

実生活では、外れて困るもの、それが、当てという奴なのだから。

まぁ、そういう次第。

きっと、その内、フリーデマン・バッハの事を好きになる日でも来るのだろう。

そんな風に予言めいて、苦手な音楽を苦手なままに、聴き終える。

密かに外そうと思っていた当ての方は的中したから、引き分けか。

好きな音楽よりも、好きじゃない音楽を聴く時間の方が、年々、多くなって行く。

その空しさを生きる時、初めて人は、己の天命の短さを悟るのかも知れない。

好きなものが好きって事程、分かりきった事はないのだから、安心して、嫌いなものにも行けるのだろう。

そうやって、ただ聴くという行為にも、一々、道がある。

アジア人に生まれて、そこは良かったなと心底思う。

嫌な仕事をするのが嫌なのは、きっと、好きな仕事もないからだ。

そんな業を背負ってみると、やっぱり、今日、聴くべきは、フリーデマンの音楽だったな、と思う。 

自由意思とは、全く因果なものだねぇ。

この人も、きっと、好きな仕事がなかったに違いない。

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