求めては、六:ゲオルギエヴァの四季

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ミラ・ゲオルギエヴァ独奏

ソフィア・ゾリスデン

1992年発売ビクター
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日本ビクターの録音ではなく、ブルガリアのGEGA NEWからのライセンス盤。

ゲオルギエヴァの来日公演に合わせて発売された一枚と思われ、もしかすると、日本資本が絡んでの企画だったのかも知れないけれども、その辺の業界事情は分からない。

録音当時、ゲオルギエヴァは15歳(1976年生まれというのを信頼すれば)で、天才美少女ヴァイオリニストとして、往時はそれなりに持て囃された人だった。

今回、入手したのは、同年に、三越が新入社員向けに制作したらしいプライベート盤なので、ライナーノーツの代わりに三越の社史が書かれており、音楽についての情報は皆無、記述によると、この年の入社式では、海野義雄独奏、東京ヴィルトゥオーゾの合奏によって、ヴィヴァルディの四季が演奏されている(そのライヴが聴けるのかと思って購入したら、GEGA NEW音源のミラの四季だった)。

入社式で演奏した音楽家と配布音源とで演者を入れ換えて、それに何の断りもない辺り、如何にも百貨店のやりそうな審美眼で、ゲオルギエヴァの音源が採用されたのも、単に能率的な理由に過ぎないのだろうけれども、それ故に、その時代の空気が出ていて面白い。

ゲオルギエヴァは、飽くまでも、古典洋楽界隈内でのアイドル的な存在で、その名が市井まで届いていたかは怪しいかったと思いつつ、、勿論、日本人ではないから、今回、求めている世界線に列べてよいかも迷う所ではあるものの、、東欧の音楽家を安く買って本場・本物と謳って売り出すプロモーションは、往時の日本のレコード産業の常套手段であったから、そこに上手く乗れた典型モデルとして、ミラの四季こそ相応しい気もしている。

実際、度々来日している彼女らの演目を眺めてみると、大作はヴィヴァルディの四季くらいで、あとは小品を並べたコンサートとなっており、狙った客層は限りなく間口が広かった。

そして何より、同じ頃に録られた邦人のヴィヴァルディを聴いていて、食傷というか、いい加減うんざりしていた所に、ミラの四季はとっても新鮮だったから、この際、幾つかの邦人のレコードは聴かなかった事にして、ゲオルギエヴァの音盤で蓋をしてしまおう。

東欧の辺境国ブルガリアのレコードを、本場物として担ぎ出せるくらい、日本は極東に位置する洋楽後進国に違いないのだし、必ずしも、それを卑屈に取る必要もない。

寧ろ、日本というバブリーで狂ったアジアンがいなかったら、往時の東欧のレコード産業は、もう少し寂しいものになっていただろうから、その功罪は、英国の博物館にエジプトの出土品がある事よりも、遥かに健全で文化的であったとも限らないし、一層、闇が深いのならば、その深さこそが最高とも言うべきだ。

ミラ・ゲオルギエヴァの演奏は、年齢も容姿も、東西の経済格差も、そんなものはすっかり無視して聴いても、ヴィヴァルディの四季が名作だという事を思い出させてくれる、快活で気持ちが乗れる演奏で、今日、ブームの彼方に葬り去られているのが勿体無い様な、密かに愛でたい様な一枚だ。

独奏、合奏共に、つくづく、ブルガリアの音楽家達には、内から湧いてくるリズム感の良さみたいなものがあるな、と思う。

音楽をスペシャルなもの、ゴージャスなもの、或いは、クラシカルなものとして、僕らの耳に届けるには、彼らの音楽は確かに少し朴直で、音楽を身体で感じ過ぎているかも分からない。

けれども、それはとても生活感のある音楽で、どんなに時代考証に優れた演奏よりも、天才集団がアクロバティックでスリリングに奏でた舞台よりも、ヴィヴァルディらしい音楽になっている。

ヴィヴァルディがソリストとして想定していたのは、孤児院の女子達だった訳だから、ゲオルギエヴァの確かな技巧と少しの自分らしさ、そして、等身大で音楽をのびのびと奏でていく様こそは、ピエタの風という観すらあった(尤も、ピエタ院の合奏団は、若い娘の楽団という訳ではなかったそうだから、その風は歴史が僕らに呼び覚ます、幻覚作用のほんの一例に過ぎないものだ)。

ミラのヴァイオリンは、結構、自由にたっぷりと歌い、時に大見得さえ切っている。

それでいて、楽団と対立する事は全くない。

とっても自然な会話があって、日常会話の様である。

ソフィア・ゾリステンも、四季の描写に気を取られて、演出に躍起になって、音楽的な調和を犠牲にしたりはしない。

標題音楽の面白さとか、機会音楽の機能性とか、そういう事には無頓着に、ヴィヴァルディの音楽を快く奏でている。

それはまた、ブルガリアに限らず、東欧の楽団によく聴かれる音楽のあり方で、地味とか二流とか、普通とか平凡とか、下手とか華がないとか、或いは、悪くないとか存外よいとか、余り積極的には語られない傾向にあるものだ。

だから、なのか、だけれども、なのかは分からないけれども、そういう東欧の楽壇にある滋味で慈しみ深くって、素面で気さくな雰囲気が、私は堪らなく好きだし、音楽の本質というか、自分のソウル・ミュージックは、この辺にあるんじゃないかとすら錯覚してしまう。

兎に角、聴いていて、美しいというか、嬉しいというか、解釈とか比較なんぞを放棄して、ただ音楽がすうっと染みて来る。

日本人の奏でるヴィヴァルディには、多かれ少なかれ、善かれ悪しかれ、もっと気負ったものが宿っていて、息苦しさを覚えずには居られない。

西欧のミュージシャンのヴィヴァルディだって、当たり前だけど、何だかバタ臭くって、異物感が拭えない事が多い。

そんな倒錯して捻れた精神に、ブルガリアのヴィヴァルディは屈託なく、疎外感を覚えずに済む辺境の心地よさが確かにありそうだった(実際には、最も顕著な余所者と扱われるのが田舎であって、アウトサイダーにとっての安寧は、実は都会の喧騒の陰にこそある)。

年齢の割りには完成度が高いとか、将来が楽しみとか、そういう評がどうしても多くなるのが、天才少年少女のレコードの宿命だとして、ゲオルギエヴァの四季には、これ以上の四季をこの人が奏でる事はないだろう、という予見があって好い。

それは、五嶋龍の四季に感じたものに近くて、古今の名盤には劣るけれども相当良い、なんてもんじゃない。

不可抗力でたまたま撮られたスクープ写真の様な奇跡であって、これこそ本当の意味での記録というべき一枚だ。

レコードの面白い所は、或いは残忍な所は、後年、どんなに成熟し大成しようとも、若気の至りを超えられない、という事が、まま刻まれている現実があって、それは、音楽とは刹那の彼方に消えるものだという事を、逆説的に証明してもいる。

自らの内にこそ超えられないレコードがある。

そういう人生の苦悩を、幸いな事に市井に集う僕らの多くは知らない。

そんな余計な同情をも感動総和に変換して、ヴィヴァルディの四季を聴く。

レコードの方を聴いている訳だ。

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