幸せの閾値を下げると結構Happyだ
現状の幸せを認識し、幸せを感じるための自分のセンサーの閾値を下げておくことは、人生を楽しくするために特に大事なことだと思っている。
少なくとも今の現状は、幸せで満ちているし、今がすでに最高であるということを認めてもいいのではないかとも思う。
人生の分岐で選択してきたルートは全て最高の方を選んできているし、今があるのもそのおかげだ。
あの時こうしておけばなどの後悔もあるが、それがなければ今の自分はない。
まずは現状の幸せを少し箇条書きしてみる。
幸せ箇条書き
いつでも温かいシャワーを浴びれる
住んでいるところが快適である(暖かい、涼しい)
最新のスマートフォンデバイスを持っている
いつでも欲しい情報をどこでも手に入れることができる
映画やアニメ、ドラマなどの娯楽をいつでも定額で見れる
音楽をすぐに聴ける
何時でも食べ物を買いに行ける(コンビニ)
おにぎり、パン、お弁当、アイス、お菓子、チョコレートをいつでも低価格で買える
友人や恋人とすぐにほぼ無料で通話ができる
テキストでのコミュニケーションも無料でできる
映像と音声のコミュニケーションも無料でできる
世界中の人とすぐに繋がる手段がある
ゲームをしながら通話をしたり、世界中の人に配信することができる
自分のやりたいことや得意のことを世界に向けて発信できる
夜に散歩しても襲われない
安心して旅行に行ける
飛行機、新幹線など手段がたくさんある
本を欲しい時にいつでも読むことができる(電子書籍)
本を家にいながら買うことができ、誰かが配達してくれる
勉強したければ、自分でいくらでも調べて学ぶことができる
英会話ですらも自分で勉強できる
屋根のあるところで生活ができる
街は常に綺麗を保たれている
洋服を低価格で買うことができ、欲しい服を選ぶことができる
他の国よりも殺されにくい
医療費が安い
薬も豊富だ
フランスのルイ14世よりもはるかに良いものを食べている
徳川家康や織田信長よりも良いものを食べている
旅行をするとしたら、ローマ皇帝よりもはるかに安全が確保されている
ローマ皇帝よりもはるかに清潔な衣服を来ている
アリストテレスやソクラテスよりも知見や情報を持っている
ほら今は幸せだ
この状態ですでに相当幸せなど思う。
もちろん、今の時代ならこういうのは当たり前だから、もっと高みの幸せを感じないと幸せとは思わないという人もいると思うが、過去の歴史や他の文化と比べた場合を考慮すると、やっぱりまだ幸せな方だと思う。
僕はポケベルすらない時代に思春期を経験しているからもあるが、今の時代はやれることがたくさんある。じゃあ、その時代が過去のポケベルすらない時代と比べてダメだったかと言われると、全然そんなことはない。あの時はあの時で楽しかった。友達とコンタクトを取るときは、友達の家に電話をする。大抵お母さんが出て、なになに君いますか?と聞いてやっと友達と会話ができる。ある意味今と比べると制限があるが、それがまた良かった。レンタルビデオで見たい映画を dig るときも楽しかった。友人や恋人と見たい映画を探す作業すら楽しかった。今はなんでもあるが、誰かと何かをやる機会は随分と減った気がする。スマホの画面を本当は誰かと一緒に見ながら何かをしたいが、割とみんなが自分のスマホを覗いている。相手に共有したいことは URL を伝えて、相手は相手のスマホでそれを見る。
だから、なんとなく今の時代は前と比べると孤独だ。僕は孤独が好きなので、問題ないが、そうじゃない人から見ると狂う時代でもあるんじゃないかと思う。お酒も辞めたから尚更孤独になったが、それがまた楽しい。あれこれ色々追求するのが好きなので、自分の世界にどっぷり浸かりながらプログラミングをしたり文筆をしたり、読書をしたり、レコードを聴いたり、最高だ。幸せすぎる。
去年は色々あり、壮絶に絶望して、生まれてから一番苦労した年だったから、その反動もありこんな文章を書いているのかもしれないが、そうか、ある意味一度絶望するのが幸せを享受するための手っ取り早い方法かもしれない、という元も子もない話を書いてみる。
参考リンク
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