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自分のつぶつぶ◎ひかりを感じる

これまでになかった体験がありました。
友人が送ってくれた本を机に置いておいたら、
言葉にならない緊張感を自分の内側に感じました。
それは365の子どもと遊ぶアイデアが書かれている本で、
わたしなら、ふつう(凪)もしくはそれ以上(ポジティブ寄)の
反応を抱くはず(と、わたしは思ってた)。
実際受け取ったときは、何より嬉しかったしありがとう!で
時間あるときに読もう♪と、机に置いていた。
でも、なんだか、1日経っても2日経っても、開かない自分。
何か、微細に、「直視できない」と言っているこころの声に気づいて
いったん、目につく机上から棚へ移しました。
その後、なんだこれは・・・と自分を感じてみると
「365日子どもと遊ぶ母親」像っていうのを連想して
緊張を覚えていることが分かりました。
勝手にそれに迫られてる感じ。
そうでないといけないという。
これはとーーーっても大きな、実感の深ぁぁい気づき。
ギフトだった。

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ねえ、ええこ、わかるよね? めっちゃありがとうなんだよ。
気づいたら、めっちゃ気楽に眺められる。おもしろいし可愛い本。


これが自分、と思いこんでいたものが、実はちょっとずれてて
自分の中心から自分自身がいなくなったり、はみだしてるってことが
あるって、身に染みて分かった体験。

また、今回これが本、書物というもので起きたので、ふと、
「絵本」や「童話」の本というものが、子育て中のお母さんや
もしくは広く母性(父性でもあるか)から見て、
そこを何らか刺激したときに、
時と場合と人によっては、ポジティブでも中庸でもなく、
緊張や制限、制約、○○しなければ、とか、不足感とか・・・
そういう方向へ作用することも、充分にあるなあと、気づきもした。

現実に、なんていうのかな、
子どもと大人のあいだで手に取られる「絵本」が
その時間の印象の中で背負うもの、担うものには色んな意味があって、
また、大人が介在せず、子どもひとり、
もしくは、もっと広くひとりの人が個人的な時間を過ごす
そのときに在る「絵本」。
ここでもいろいろなものが付きまとうこともあるし
いずれもそれらは時には、とっても豊かなことなのだけど。

「絵本」が正しい子育てや、幸せな子ども時代の象徴になったり、
崇拝されたり、なんだ、それがないとそうでないみたいな
こころを制限するものになったら、ほんとうじゃあないな!と思う。

わたしはまだまだ、こだわってるのかもしれない。
でも、こだわっていたいポイントでもある。うん、きっとそうだ。
一生、わたしが、ここをこだわろう。
これから、ここをこだわろう。

ポッドキャストで初回、2回目と、お呼びしたゲストふたりともが
最初の出逢いの場が同じところでしたね。これ、はからずも。
でもそこに、自分の育児のゼロポイントがあったんだろうな。

これまでの子育てのことを、振り返りたかったんだなと感じてます。
確認して、次に進むために。
これも気づき。

微細に、繊細に、自分を感じるってこういうことかと、思ってます。
新しくなってきているなあと感じる。

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つぶつぶが、いっぱい見える。大切。大切。
この絵は、Home of Rainbowのセレモニーに参加して、描けた絵。






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