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『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』

童話作家・角野栄子先生の
『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』を読みました。
丁度、NHKで「カラフルな魔女の物語~角野栄子85歳の鎌倉暮らし」
という番組が2週連続で放送されて、2週目はこれから録画を観るところ。
そんな狭間での読了でした。
角野先生といえば、やっぱり『魔女の宅急便』
わたしは、シリーズ2巻目以降の読書経験はほんの数年前の冬でした。
それよりずっと前、2003年にはご本人にお会いできる機会が!
文化出版局主催「ミセス童話賞」で応募していた童話が入賞し、
その名も「角野栄子賞」を頂いたその授賞式でのことでした。
そのときに、もっともっとお話しをさせていただけばよかった。
もっともっと、近づけばよかった。などと、悔やまれます。

『魔女の宅急便』は、本当に原作、良いです。
24年に亘って書かれて全シリーズ6巻。
第2巻は、わたしの恩師の一人、広野多珂子先生が挿絵を書かれています。
この冬、読まれるのもおすすめです。
わたしは、『魔女の宅急便』の読書会を開く夢もあったりします。
ただただ、このお話を読む喜びを分かち合いたい。
そこに潜む魔法の可能性を感じるんです。

以下は長いのですが、本文から、自戒を込めて引用。
書き手としても、子どもと関わる大人としても、
とても大切なことが書かれているように思います。
でも、この本は、どこをとっても、角野先生が格好良く、
そしてとっても可愛らしかったです。

ことばというのはなかなかやっかいなところがある。
限りなく大きな世界に誘ってくれるかと思うと、きりきりといじわるな面をもってる。ことばは物事を分ける性質がある。分けて価値をせっかちに決めてしまう。そうすることで人は安心を見つけようとしがちだ。ことばというと、その意味は? と人の注意はすぐその方にむけられる。どちらかに決めて落ちつきたがるのだ。そうでないことばがあるはずだと思うのだけど。ウィットの効いた江戸ことば、そしてあの無言の親子の中にいっぱいつまっていたことば。子どもの物語はそういうことばで書きたい。体に響く、豊かなイメージの世界に連れ去るようなことばを探したい。
ー「ことばと出会う(第五章「本とことば」)」より

「作品は自分の子ども時代を思い出して書くのですか? それとも自分の子どもと関わっているうちに、生まれてくるのですか?」
というような質問をよく受ける。そのたびに考えてみると、そのいずれでもないような気がする。(中略)個人的な思い出によりかかりその中に意味があると思い込んでいるところに、本に対しての大人と子どもの違いが生まれてしまうのではないだろうか。
大人は自分の子ども時代を懐かしむあまり、それを正当化したくなる。そして押しつけが生まれ、子どもは反発したくなる。とはいってもやはり私の場合子ども時代と、それに続く若いころの思い出がなかったら、子どもの物語を書く人にはなっていなかったかもしれない。そのときあったことがらよりも、出会ったときの心の動きの中に創作のエネルギーはかくれているような気がする。
(中略)
大人たちは日常の生活に追われて見える世界にばかり心をうばわれがちだ。でも子どもはちがう。この二つの世界を自在に行き来しながら生きている存在なのだ。いきいきと心を遊ばせている。どうか効率がいいからといって見える世界へ無理矢理引っ張りこまないでほしい。二つで一つの世界、そこでこそ人はいきいきできるのだと思う。想像が膨らみ、創造するエネルギーも生まれてくる。
私は言葉を使って物語を書いている。そこで言葉の意味にばかり頼りすぎると物語は次第に貧弱になっていくような気がする。言葉は物事を分けようとする性質があると思う。子どもの物語は大人が書いて子どもが読むものだからとても用心しなければならない。見える世界の価値観で物語を書いたら子どもたちに嫌われてしまうだろう。それで言葉の意味よりも言葉のときめきを大切にしたいといつも思っている。
ときめきは形ある風景として立ち上がってくる。そこを読み手といっしょに歩けたら、どんなに楽しいだろう。
ー「見えない世界(第五章「本とことば」)」より

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