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はなちゃんの好きな絵本

最近のinstagramでは、絵本に特化して投稿しています。
わたしは自分自身でも絵本の文章や童話を創っているし
その勉強のためにも、幅広く色々な作品に触れることを心掛けています。
学生時代には、児童文学を専門的に学んだりもしたので
きっと、それについて詳しいし、思い入れも強い。
ただ、どの分野でもそうなように、知れば知るほど、
自分の無知を思い知るもので、もっともっと読まなければなりません。
でもわたしは、絵本の研究者ではなくて、ひとりの作り手。
同時に今は、ひとりの渡し手。
そして、親として、子どもに願うことのひとつは、
色々なものに出逢ってほしいということ。
絵本に限ったことではないけど、こと、ここにおいては、特に、
わたしをあまり挟まないように、と、気をつけています。
その気遣いが正しいかどうかはさておき、
広く知りたいという自分の欲にとって、これは好都合でもあって、
食わず嫌いになりそうなものでも、
子どもが「これ読んで」と持ってくれば、読みます。
「うーん、これはいかがなものか」と思っても、なるべく丁寧に読みます。
8才になった息子には「かかはこれあんまり好きじゃないから、次は自分で読んで」と思わず言ってしまうこともあったりするし、
自分を挟まないと言っておきながら、2才10か月の娘には最近
「かかはどれが好きなの」と本棚の前で呟かれてしまったりします。

でも、長男のときよりも色々と経験を積んだものとして思うのは
母にも好みがあって当然で
わたしの人生を自分の好きなもので作ろうというのは健全な在り方。
正直であることもいいなと、「これ面白いねー」「これやだー」と
軽口を叩けるようにもなっていると思います。
ずっとその世界に身を置いていると、本来の自分の好みや
情熱といったものが、見えなくなってしまうもので、
それもとっても困ることなので、今の私はこれくらいでちょうどいいです。

名作として知られていても、さほど食いついてこないモノ、
名作ながらあまり好きでなかったものが、子どもがハマって何度も読むことで、その素晴らしさや説得力に気づかされるモノ、
流行り的な作品と敬遠していたものの、子どもと共鳴する様を見て、ハッとさせられるモノ、
地味だなと薄い印象だったのが、子どもが何度も読みたいとせがむモノ、
派手であっても、子どもが一度読んだっきりになるモノ。

共通して言えることは、それを読み聞かせする時間は、
たいがい、子どもはその絵本を楽しんでいるし、楽しもうとしている。
ちょっとこの子には長すぎる文章だったなとか、
ちょっとこの子には展開が複雑だなとか、
そういうこともあるんだけど、
「ねー、ここにねこちゃんいるよ」とか
「さっきの子はどこ?」とか、お話の本筋とは違うところで、
その子が心を寄せるポイントが見つかっていることもあったりして、
絵本の底力というのか、子どもの方の力というのか、相互の相性、
につくづく感服するのと同時に、
絵本って何でもいいんだなー、
この時空間を作りだす道具としてでいいんだなーとか、
そういうふうなことを体験として思えるようになったことは、
とても、大きなことです。

一生心に残る絵本を読まさないといけないわけじゃなくて
百年残る絵本を作らなければと気負うのでもなくて
なんか、手に取ったやつ。
なんか、好きなやつ。
自分の好きを散りばめた作品。
自分の今が詰まった作品。
今の娘にぴったりなやつ。
なんか似てるねってやつ。
これ失敗だった~って苦笑いするものだってもしかしたら、「今」だからだったのかもしれないね。

化石ではなくて、
触れられない美術品でもなくて、
手に取って出逢うことができる絵本は、生きている。
作家は置いてけぼりで👌

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