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記憶のこと

今年は学びの年だった。
たしか2008年くらいに出逢った渡部直子せんせいの
ヨーガスートラのクラスを、いよいよ、今年の1月から受講。
月に一度のオンラインクラスは、
子どもがいる暮らしのなかで、
「必要な自分時間を作る。そこに意識を向ける」ことの
いい練習にもなると、思った。実際、それはとても意味があった。
コロナの前から始まって、そしてコロナがやってきて、そして今も、
変わらずに続けられる場があるというのは
とても、わたしを、繋いでくれてもいた。

ヨーガスートラはパタンジャリというグルがまとめた聖典。
ヨガとは、心とは、ということを、パタンジャリさんの解釈で
簡潔な言葉に宇宙の真理をぐぐっと包んで、どかーんと与えてくれている。
サンスクリット語はとても奥が深くて、
わたしはちっともまだまだ分からないんだけど、
分からないまま、音を聴く、繰り返して唱えてみるということ自体が、
「今ここにある」ことの実践になるという、先生・直ちゃんの考えが、
ずっとずっと好きだった。

先週末にまたクラスがあって、昨日は満月を迎えて、
自分では色々と書いているのだけど、今ここで、「記憶」のことを
まとめておきたいという衝動がずっとあったので、形にすることにします。
何かこう、これで、また前に進むために必要なことのようです。

1章11節
anubhuta-visaya-a sumpramosah-smrtih

1章6節で、マインドの機能は5つのカテゴリに分けられるとあって
7節でひとつめのpramana(秤、正しい認識、理解)
8節で次のviparyaya(誤解)
9節vikalpa(想像、概念化),10節nidra(熟睡),ときて、
11節がsmrtih・スムルティヒ(記憶)

さらに遡ると5節で、
「このあと紹介する5つのカテゴリにはそれぞれ、
klista(傷つける・邪魔になる)面と、
aklistaha(傷つけない・痛み苦しみに繋がっていない)面とがあるよ」
とも教えてくれている。

こうやって書いていってしまうと本当にまた面白くて
自分に落とし込みながら、ノートではなくてこうして
外向きに書くのも意味があるなあと感じています。
ちなみに、この1-5、klista-aklistahaのノートのところに
自分でメモしていることが
「暑くなったブクブクした泡」

これはクラスの冒頭で、直ちゃんが、今日学ぶ部分をサンスクリット語で読んでくれるんだけれど、日本語での説明やらに入る前に、
音を聴いたときに、それぞれがどんなイメージを持ったか?を、
大事にしようというガイドがいつもあって、それを、書き留めていたもの。
この暑くなったブクブクした泡、もしかしたら「熱くなった」の
間違いかな。おそらく、klistaについてのイメージ。

前に話を進めよう。
わたしは、smrtih、記憶のことを、書きたかったのだった。
もう一度。1章11節
anubhuta-visaya-a sumpramosah-smrtih
「5つ目のマインドのはたらき、それが「記憶」という機能。
 それは、1回体感したことは、絶対になくならない。」

言葉というのは、こうして、肉筆を伴わない画面上であるほど
どうしてこうも、断定的になっちゃうのかな。。。

サンスクリット語には、その単語のなかに、ちゃんと目に見えて秘密が潜んでいる(みたい)ので、少なくとも、伝えている感じはするね。
例えば、anubhuta、これが「体験する・した」とか
五感+マインドのリアルで経験したことを意味するんだけれど、
この発音が「アヌブー!!タ」って感じ。
bhu=ブーのちから!って直ちゃんが伝えてくれた。出る音。
現象化・具現化。ビビディバビディ・ブー!の音。
体感ってそういうこと。
ほらね、すごいな、サンスクリット語。

それでまぁ、そういった、体感・体験は、マインドの記憶という
機能によって、完全にそのままの状態で保存されて、
そのデータ、メモリーは、永遠に残ることができるというのです。
歴史上で一番残っているデータって何か?って、それは「口伝」だと。
人のメモリーから、人のメモリーへと伝わるものが、
一番本当に残るものだと。

で、さっきも書いたように、でもこのsmrtihスムルティが、
klistaにわたし自身に作用するときもあるし、
反対にaklistaに作用するときもある。
そもそもわたしにはどんな記憶がある?

記憶って、過去の分野のことのようだと漠然と思ってしまうけど、
記憶という録音装置はすばらしい性能で、
五感をともなって体験し、そのとき降り注いだものすべてを
そのままに録音してデータにしてくれる。
ノートやアルバムで「死んでいる」ものじゃなくて、
イキイキとした波動をもって、まさに、わたしたちを今も生かしている。
わたしたちを今、動かしているすごい重要な機能。

でも確かに、わたしのなかに降り積もった膨大な「記憶」のなかで、
わたしを、傷つけるもの、重くさせるものもある。
それはどんなもの?と見つめていく中で、
サムスカーラ=癖、パターン、習慣 というものを教えてもらった。
潜在印象と訳されることが多いのかもしれないけど、
それよりも、ということだったような気がするし、実際、
ネットで検索すると、出てくる出てくる「印象」としてのサムスカーラ考。
でもやっぱり、癖、パターン、習慣として捉えたほうが
より理解できる気がする。

記憶が、何らかの痛みを伴ってネガティブに残っているとき。
それがトラウマとか、インナーチャイルドとか、
色々と言われたりするのだけど、その消化できない苦痛である記憶が、
「うつ」とかを引き起こす原因になったりするともいえて、
それは、その経験を「知恵とエネルギーに変換するために与えられた時間」だと、直ちゃんは言った。
わたしはほんとうにこういう直ちゃんの解釈で、
何度も何度も力をもらってる。
痛みの残る記憶は、適切なタイミングで消化吸収されて、
自分の知恵に代わる。立ち止まる時間は、そのためのタイミング。

けど、じゃあそもそもなんで、そんな色付けのないまま保存できる
「記憶装置」があるのに、こんなことが起こるのかって、
それがサムスカーラとスムルティのかかわりで、人はみな、
「覚えているから、やる。やるからもっと、覚えてしまう」
そういうパターンをもっているって。
それを客観的に、見つめることができたら、
自分が何にはまっていたのかに、ちょっとだけ気づくことができる。
良い悪いではない癖や思考パターンがひとりひとりあって、
反応としてもう出てきてしまうもの。

アサナ(ヨガのポーズ)のクラスのときも、直ちゃんは言っていた。
身体の痛みや、癖、ここが固いとか歪んでいるとか、
それ全部、自分をここまで生かしてくれるための杖だった。
そのパターンのなかにあることが、自分の安全だと、
頭や身体は思い込んで、手放せなかった。
でも、それが痛いとき。苦しいとき。
この杖をなくすと、はじめは転ぶかもしれないし、
ヨロつくかもしれないけど、この鎧をとってもわたしは歩けそうだ、
杖をなくして歩いてみたいというときに、
身体に呼吸を送ってアサナを深めてみる。
時間はかかるけど、少しずつその部分のこだわりやこばわりが、
溶けていく。ゆるされていく。
心でもおなじで、自分を守るために、
「飛び出さない」ことを続けて、飛び出さないことで、生き延びてきて、
でも、飛び出したい気持ちや、とび出ている気持ち自体を、
押し殺していたのかもしれない。

自分を守ってくれていた、サムスカーラ、パターンは、母親のよう。
でも、ありがとう。やってみるよ、もう一度、わたし自身の身体と心を、
この命を、羽ばたかせてみたい。
わたしのヨガはずっと、そういう歩みだったんだなぁということにも、
改めて気がつきました。


クラスの最後に、問いがあるのだけど、そのまま問うてみましょうか。

Q,今あなたが、この何でも吸い込むスポンジのような記憶という機能を使って、どんな感覚をエネルギーにして、生きていきたいですか?

Q.出来ることならアクセスしたい「記憶」は?

問われること、問うこと自体の変革のエネルギーを感じるのも
このヨーガスートラのクラスを通して実感していること。

いかに自分の「記憶」には、わたしの宝物があったことに気づいています。
どんなサムスカーラが、そこに通じる道に入り込んでしまっていたか。
でもそのサムスカーラのいじらしさも感じる。
癖は、なかなか無くならないだろうけれど、気づけたということ。
それに、また、見えなくなったとしても宝物は
ぜったいになくならないんだという信頼感がつかめたことは、
本当に大きい。
宝物のありかが、自分自身だったということも、本当に大きい。

ちなみに、citta(チッタ=心、真ん中)の記憶という機能は
身体機能とは無関係だということも、うれしかったな。
脳に何らかの障害があるときに起こる、記憶障害といった病さえも
心、cittaの記憶・データは壊れてない。

繋がる回路に障害はあっても、
アクセスしやすく整えようとすることはできるということ。

信じる信じないではなくて、わたしは、この教えがすべて喜びでした。
本当に喜びでした。

今年は、新しい拠点を持ちたい衝動が生まれて、
イメージは、空が広く見えるところ。木々がすぐそばにあるところ。
渇望するように思っていた時期もあったのだけど、
昨日、わが家の小さな窓から、見上げた満月は、愛おしくてたまらなかった。
この窓は小さいけれど、この家の上にはどこまでも広がっている空があることを、わたしは、ちゃんと知っている。
この窓は小さいけれど、満月はこうして、ここにも光を届けてくれている。
ブラインドを開けると、ふたりの子どもに、うっすらと月明りが届いて
そのなかですやすやと眠っていて、涙が出るほど幸せだと思った。
わたしの家を、愛していると思った。

何を知りたかったのかが少し分かってきた気がして、
また新しいステージが開く予感が、びしびしします。




わたしの創作活動をサポートしてくださる方がありましたらぜひよろしくおねがいいたします。励みとし、精進します。