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1997年のメディア事情(1) アクセス数を上げるために

1996-99年に勤め先の職場で回覧していたエッセイです。当時のメディア事情を伝えています。その後、予想以上のテンポでデジタル化が進みますが、「変わるもの、変わらないもの」が見えます。記事は当時のままです。


▼デジタル国家構想  (1997.5)


 マレーシアのデジタル国家構想が一気に本格化してきた。ビル・ゲイツ氏率いるマイクロソフト社をはじめ、ネットスケープやサンなど米国のハイテク企業が、マハティール首相が国の威信をかけて推進する「マルチメディア・スーパー・コリドー(MSC)」計画参入への名乗りを上げているからだ。 
 
MSCは、二十一世紀を見通した一大デジタル地域。首都クアラルンプールと国際ハブ機能を持った建設中の新空港とを結ぶ南北五十キロ、東西十五キロのコリドー(回廊地帯)に、新行政首都プトラジャヤと研究開発センターのサイバージャヤの二つのインテリジェント都市を建設する。光ファイバ網が敷設され、二〇二〇年を目標に高速道路と高速鉄道がMSCの主要ポイントを結ぶ。 
 
最先端技術を導入するために、今年の一月、首相自らが米国のシリコンバレーに出向き、MSCへの参画を呼び掛けた。「技術者がいら立つことのない理想的な環境で、情報革命の時代を存分探検していただきたい」。 
 
首相が電子情報立国を目指す背景に は「労働賃金の低い電化製品の製造国」から脱皮し、デジタル時代にアジア地域をリードしたいという野望がある。外資流入を促進するため、優遇税制を実施するなど思い切った規制緩和策を取る一方、国内ハイテク企業が資金調達しやすいように新たに株式市場を設けるなど条件整備を急いでいる。 
 
しかし、最大の課題は、コンピューター・ネットワークを駆使する頭脳労働者の確保である。多少なりとも技術に心得のある労働者の絶対数は少なく、この点で隣国のシンガポールに大きく水をあけられている。海外で高賃金で働く技術者を招き入れることも簡単ではない。また、複合民族国家が単一の国家目標に向かって走り続けることを疑問視する向きも多い。 
 
さらに、シンガポール以外に香港や台湾、韓国、日本など競争相手がひしめいているのも無視できない。 
 
これに対し、マハティール首相はあくまでも強気だ。MSCは本当に実現可能なのかとの米国人記者の質問に対し、「英国で起きた産業革命は、これといったインフラのない米国で開花した。工業国として成功した米国は失うものが多すぎて情報立国になりにくいだろう。デジタル革命はマレーシアのような国でこそ可能なのだ」と答えている。 
(了)
 
 

▼特ダネはウェブに流せ  (1997.6)


米ダラス・モーニング・ニューズ紙はことし二月、オクラホマ爆破事件に関するスクープを「本紙」発行を待たずに、インターネットの自社ホームペジに掲載した。オンライン用のニュース記事は、本紙が出るまで保留するのが新聞社の暗黙のルールだが、同紙はこの常識に挑戦したと言える。 
 
ダラス・モーニング紙の編集者ラルフ・ランガー氏は、ニューヨーク・タイムズ紙の取材に「もしもCNNが午後三時にこのニュースを仕上げたら、翌朝五時半まで待つだろうか?  ホームページは、私たちに速報性をもたらしてくれた」と語っている。 
 
午後三時に流されたこの特ダネは、マクベイ容疑者が、オクラホマシティの連邦ビル爆破への関与を認めたという同容疑者の弁護士のメモのすっぱ抜きで、翌朝の本紙では、トップニュースとして大きく扱われた。 
 
一方、同社のホームページへのアクセス数は通常、一時間当たり約200回に過ぎないのに、このスクープが流された日は1000回にハネ上がったという。 
 
同紙がインターネット上でいち早く特ダネ掲載に踏み切った理由として が考えられる。
(1)新聞の締め切りの七時間も前にニュースが出来上がった
(2)マクベイ容疑者の弁護士が他のメディアに対して情報をリークし、先を越される心配があった
(3)O・J・シンプソン裁判と違って、マクベイ裁判はテレビ中継が許されず、多くの人がインターネットで裁判経過を見ている
 
地方紙主体の米国では、サイバースペースは、全国各地の新聞社がしのぎを削る自由競争の市場である。
 
「優れたウェブサイト」との評判を獲得し、ブランド力が高まれば、広告収入も増す。米国の有力地方紙には「このビジネス・チャンスにかける」「他社に負けられない」という意気込み、緊張感が満ちている。 
 
ダラス・モーニング紙は、インターネット対応で完全に出遅れたにもかかわらず、このスクープ一本で一躍、全米の注目を集めた。 
 
インターネットに詳しいボストン・グローブ紙のデイビッド・マーカス記者は「今後、新聞社の速報マインドは増すと思う。速報は通信社に任せておけば良いという(米国の)新聞社の姿勢は変わって行くだろう。速報はウェブで、中身の濃いコクのある記事は紙の本紙で、と両方の機能が新聞社に求められる。新聞記者にとってはシンドイ時代になる」と話す。
(了)
 

▼ザルツブルク・セミナー  (1997.7)


 
「デジタル情報化が進む中で、メディアの役割やニュース活動の将来はどうなるのか」。
 
国際的な非営利研究機関、ザルツブルク・セミナーの招待を受け、六月中旬、「情報化時代のジャーナリズム」という研究プログラムに出席した。 
 
現役のジャーナリストだけでなく、政府のプレス担当者など、四十二カ国から招かれた約六十人が寝食を共にし、八日間、パネル討論だけでなく、夜遅くまで食堂やラウンジで議論を続けた。
 
セミナーハウスは、十八世紀初頭に造られたお城。湖に面し、バルコニーからはアルプスの山々が見渡せる。庭園には赤や黄、紫など色鮮やかな草花が手入れの行き届いた緑に映えて、美しい。優雅なバロック風の図書室は二十四時間利用可能。一万冊の蔵書に、百三十種類の雑誌、新聞が備えられているほか、インターネットに接続されたパソコンも使い放題だ。 
 
文字通り多種多様な背景を持った人たちの集まりだけに、セミナーでの議論は白熱する。手を挙げても、なかなか自分の番が回って来ない。
 
「政府機関や企業が今後、インターネットで市民や消費者に直接話し掛けてくる時代に、ジャーナリズムは後退するのではないか」という米国人記者の悲観論がある一方で、「インターネットを使えば、為政者のプロパガンダをはね返えせる。今後、民主主義をはぐくむ武器になる」と旧ロシア出身の社会学者は主張した。 
 
また、双方向テレビや携帯通信端末など技術革新が前提になった意見交換が進んだが、アフリカからの参加者は「私の国では、電話は数千人に一台しかない。そのような国のことも考慮に入れないと、デジタル時代を語るのはナンセンス」と訴えた。 
 
将来のジャーナリスト像については、「情報過多の時代に、情報を伝達するだけでなく、本当に必要な情報は何かを見極め、ガイドする役割がますます重要になる」という意見に多くの出席者がうなずいた。 
最新技術を駆使したオンライン・ニュースで急速に知名度を高めている米MSNBC社(マイクロソフトとNBC放送の子会社)の編集主幹もパネリストとして熱弁を振るったが、「あなたの会社が抱える問題は何か」との問いに「広告集めと、同僚ジャーナリストを教育すること」と答えていた。
 
意外な気もしたが、そんなものかと納得もした。 
(了)
 
 

▼米国ジャーナリズムの良心 (1997.9)


米国ハーバード大学ニーマン・フェローシップ・プログラムの総責任者ビル・コバッチ氏が七月下旬、メディア事情視察のために来日し、共同通信本社を訪れた。 
 
一九六〇年代に米国の公民権運動や南部の政治をテネシー州の地方記者として精力的に取材した同氏は、その後ニューヨーク・タイムズ紙に移り、ワシントン支局長などを歴任した。

妥協を知らず、どんな時も市民の側に立つ報道を心掛けた。名編集長として知られ、米国で「ジャーナリズムの良心」が論じられる時に、必ずこの人の名前が出てくる。 
 
「世界に通用する新聞」を目標に、アトランタ・ジャーナル・コンスティチューション紙がコバッチ氏をタイムズ紙から引き抜いた時は、各州から同氏を慕う百人もの若手記者がこの南部の街に集まり、コンスティチューション紙はたちまち「有力紙」の地位を獲得した。
 
しかし、二年後の八八年、電力会社など地元企業に関する記事の扱いをめぐって、利潤優先の経営者と衝突。社は破格の厚遇措置で慰留に努めたが、これを振り切って退社した。 以来、現職に就いている。 
 
編集長時代、自ら指揮した調査報道チームが四度もピュリツァー賞を受賞。うち二度はアトランタにもたらされた。 
 
目下の関心は、デジタル時代のジャーナリズムの在り方。都内の講演で「瞬時にニュースが地球を一周する時代に、一国が他の国々と無関係でいられるはずがない」とし、米国の新聞が内向きになっていると警告した。 
 
犬養社長との会見では「もっと日本のメディアから優れた記者をニーマン・フェローとして迎えたい。外国人記者との交流は米国人ジャーナリストにとっても素晴らしい刺激になるのです」と話していた。 
 
ジャーナリズムの質の向上を目的にしたニーマン・プログラムは毎年、第一線記者を招き、ハーバード大学で一年間の自由研究の機会を与えている。創立五十九年を迎え、日本からはこれまで二十三人(共同通信からは三人)が選ばれた。 

「おう盛な好奇心を持て」を繰り返す。一緒に歩いていると「交番の意味は何か」「土用の日にうなぎを食べるのはなぜか」「それは日本産か外国産か」など質問攻め。銀座で、話に聞いていた顔写真シールを作る「プリクラ」機を見つけ、リン夫人と喜んで二度も挑戦した。六十四歳とは思えなかった。
 (了)
 

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