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今日のレッスンメモ:「止まる」についての覚書

先日、アレクサンダーテクニークの個人レッスンを受けに、大塚のゆりこさんの教室へ行った。自分が教える立場になってからも、自分自身のためにレッスンを続けて、もうう3年ほど経っただろうか。

その日はちょっと体が疲れていたので、まずテーブルワークから始めた。仰向けに横たわって背中を重力にあずける。ゆりこさんの静かなハンズオンに、腕が、脚が、首が、一つひとつゆるんで広がっていく。そのたびに、私の身体は、いつの間にこんなにギュッとしていたんだろう、と思う。そうそう、今日は前に進むのに、いつもより少し努力がいる感じだったっけ…などと思い出す。

それから身体を起こして立ち上がる。広がった身体を二本の足に乗せてみると、それまであった力みがない分だけ、なんだか空っぽな感じがする。その状態で、歩いて、止まる、歩いて、止まるを、しばらく繰り返す。空っぽの空間では小さな物音がよく響くように、空っぽになった身体では、いつも以上に自分の動きが繊細に感じとれる。

歩いて、止まる。歩いて、止まる…。止まるとき、背中がわずかにギュッとなる感じ。これは一体なんだろう、止まるときに私は何をしているんだろうと、興味を持って自分自身を観察する。ちょっと考えて、わかった。走っている自転車にブレーキをかけるように、歩みを止めるとき、わずかに背中を縮めることで、自分の動きにブレーキをかけているのだった。

なるほど。私の意識の中で、「止まる」イコール「ブレーキをかける」ことになっているのか。

そこで、歩いている状態から立ち止まるとき、「ブレーキをかけて止まる」のではなく、「自然に速度が落ちていき、その結果動きが小さくなっていく」ように思って、止まってみた。ふむ、背中のギュッとした感じがない。立ち止まった後も、身体の中では微細な動きが続いているのが感じられる。そして身体の中で自然に起こる小さな動きを起きるがままにしておくと、次の歩き出しもスムーズになった。

「止まる」は動きの連続の中にある、ひとつの動きのあり方なのだった。

もちろん、ブレーキをかけるように動きを「止める」こともできる。状況によってはそれも必要な選択だけど、ブレーキをかけたことを忘れてそのまま動こうとすると、問題が起きてしまう。アクセルとブレーキを両方踏んでいるようなものだから、動くのにすごくエネルギーが必要になる。この日、私が前に進むのに努力がいると感じたのは、こういうことが起きていたのだと思う。

また、座っている・立っているといった、私たちが「姿勢」と呼んでいるものも、ひとつの動きのあり方だと言っていいと思う。この「姿勢」を動かないものとしてブレーキをかけるようにして固定するのではなく、身体の中で生まれ続ける小さな動きの連なりと一緒に居続ける。そう思うと、身体がふわりと広がっていくような気がした。

歩くときも、立ち止まるときも、座っているときも、寝ているときも、生きている限り、私たちは動き続けている。

レッスンでは、繰り返し、繰り返し、そんなシンプルなことを思い出す。

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