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逃亡!絶望!がんばったー。

ぜッ・・・ハッ…ハァ……ハァッ……ぜっ、、、

研ぎ澄まされた冬の空気を切るように俺は走った。
眠れる太陽。沈む空。

脚が重い。視界がかすむ。

肺を引きずるように腕を振る。

目的などない。
ただ走る。逃げるように。ひた走るしかないのだ。


…………頬の冷たさで我に返る。

気付けば田んぼの畦道につっ伏していた。

つまずき転げたのだろう。

一体いつから俺の人生は地面の匂いになったのだろうか。

・・・

話は日の暮れたばかりにまで遡る。
仕事をサボって出かけた撮影。
納得の写真に上機嫌で帰宅した俺は冷蔵庫を開け手を伸ばす。

缶ビールである。

切り裂くような冷たさが指を伝う。間髪入れずプルタブを弾く。
プシュッ…ビールが一言。さながら一日のファンファーレ。
そう、俺の一日はこれから始まるのだ。

すっかり酔いの回った俺は冷蔵庫に佇むある一点に目が留まる。

プリンである。

言葉はいらない。
飾らずともプリンは最強なのである。
幸福とはプリンそのものなのである。

無論、幸せとは永遠ではない。
「幸」から一つを失うと途端に"それ"は「辛」となるのだ。
空の容器を見つめていると視線を感じた。
容器と目が合うわけもなく"それ"は確かに背後から。確かに感じる。振り返る。

嫁である。

愛する我が子を背負う嫁である。
雷雨のごとく泣きじゃくる我が子をあやす母である。
当然、母の機嫌も大荒れ。台風。はりけーん。
幸せとは永遠ではない。

「それ。」

それ……?

「プリン」

あぁ……

「わたしの」

あー、ね。

「うん」

嫁の右手にはバットが握られていた。
ぎゃああーーーー!幼子の鳴き声が肌を突き刺す。

振りかぶったバットの先を見るまでもなく、俺は家を飛び出した。

・・・


気付けば田んぼの畦道につっ伏していた。

このまま独りで土になろう。

───(きみは、ひとりじゃない…)

聞こえた。絶望のさなか、はっきり聞こえた。

目を凝らすと目の前に一匹。

……いや、二匹。





──オンブバッタ
バッタ(直翅)目・オンブバッタ科に分類されるバッタの一種。
オスは2.5cm、メスは4cmほど。
春から晩秋までみられる。
メスの上にオスが乗っている姿は有名である。

おまえらってケンカしないのか?
イヤにならないのか?

返事はない。
しかしオスの、メスの背を掴んで離さない健気さ。
堂々たるメスの安心感。
二人三脚。いや、六脚。

返事はなくとも見ればわかる。


……帰るか。



ぽつぽつと明かりの消えた町を背に、チャイムを押した。

ただいま。

「なに」「帰ってきたの?」

子を背負った嫁が静かに問う。

さっきは悪かったよ。プリン勝手に食べちゃって。ほら、これで仲直り。

袋を見せると嫁は照れくさそうに微笑んだ。

「え……ありがと。」

おう。

「ちょうどこの子も寝てくれて。一緒に食べましょ」

背の子から、夢を見ているのか、グフッと笑い声が飛び出した。
見合った俺たちからも笑みがこぼれる。

はい。どうぞ。

「ふふっ、プリンかしら。」

袋を手渡す。開ける。中身を手に取る。

手に握られたのはオンブバッタ。

オンブ。バッター。

泣き出す背の子。
嫁の右手にはバットが握られていた。

1回表。攻撃は1番、センター。嫁。

バットを構えて……


(フィクションです。嫁がいなければ子供もいません。今の時期はオンブバッタもいません。なにもいません。)

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