記号の不合理を受容する優しさ
インターネットの普及で、分からない事はGoogleに聞けるようになった。
少し前は自宅のパソコンで調べないといけなかったけど、2019年を以てガラケーサービスも終了。
1人に1台スマホを持つような時代になった。
だれでも簡単に、素早く情報が手に入る時代。
行く先も今日食べるものも流行も、迷ったらスマホに聞いたら答えてくれる。
インターネットの普及で人間関係が疎遠になるとか、人との関わりが薄れてしまう、そんなインターネットが与えるものは虚構である…なんて言葉を10年くらい前にはよく聞いたし、論文でも読んだりした。
どちらかというとネガティブなイメージで描かれていた青写真だったけど、あれから10年経った2020年、インターネットは「良い」なと思う。
人々が疎遠になるどころか、それまで閉じこもっていた高齢者が外界との関わりを持てて、意思疎通がとりにくかった障がい者の人達も遠隔で操作できるペルソナを持ち、不登校でも世界に発信出来るという「選択肢」が僅かでもあたえられた。
世界がぎゅっと縮まったような、便利というよりも身体が拡張したような感覚。
でも、どんなに素晴らしい道具も、使い方を間違えてしまうと、それは世界が自分に向かって侵食してくる感覚に転換されてしまう。
そこで想うのが「言葉」。
よく、言葉は諸刃の剣だ、なんて言われるけれど、まさにインターネットの世界だとそれが顕著だなと思う。
簡単に言えば、優しい言葉は世界を拡げてくれるけど、尖った言葉は身体に侵食してくるみたいにどんどん刺さる。
最近だとSNS上の誹謗中傷が話題になった。
仮想現実なんていう言葉はこれまでは夢の割合が強いイメージだったけど、ここ最近は現実の割合が多い使い方になりつつある。
それはいい事でもあるけど、その線引きの位置が変わった事を念頭に置いておかないと、ひとつの事象に対する話題の階層が噛み合わなかったりするんじゃないかなと思う。
匿名だったり、アカウントといった、いつでも変えたり消せたりする文字列だと思って、SNSで他人に石を投げちゃう人。
インターネットに石を投げても大丈夫な人を見つけて、自分も石を投げる側にまわって安心してる。
おそらく批判と誹謗中傷は違うから、というインスタントな正義でマウントをとることも可能なんだけど、結局それだと物事や人を「点」でしか見ていない。
SNSでの議論の多くはSNSでの情報収集を元に展開をされてしまうから、結局、対象の生活や性格をリアルに知らない。
物語に伏線があるみたいに、基本的に何かを語る時は「n-1」するべきで、「点」であるボタン1つで何かを変えたいなんて思っちゃいけない。
「点」じゃなくて「線」で見ないと、描けない事がたくさんあると思う。
「線」で考えると、物語が絶対産まれるはず。
言葉はなるべく綺麗に使えば、自分で思っている以上に素晴らしい世界に出来るかもしれない。
良かったら、誰かを労い、助ける言葉を紡いで欲しいなと思う。
他者は鏡。尖った言葉は相手に向けているつもりが、どんどん侵食されて消耗するのは自分自身に振り変わってきているんじゃないかなと思ったり。
そういう人は、相手が見えないから石を投げて人として足るんじゃない。
石を投げる事で自分が人ではなくて、ただの記号になってしまっている事に気づかないといけない。
言葉は文字列、記号に過ぎないのだけれど、血の通ったコミュニケーションで、人は人でいられるのだと思う。
これからインターネットはAIと共に私たちの仕事や生活において台頭する場面がたくさん出てくると思う。コロナはそれを加速させた。
インターネットを虚構にしないためには、人間しかできないことと向き合う事。
正確さや正しさだけでは計れない、コンピューターだったらエラーと認識されるような温かな不合理を受容する事だと思う。
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