子どものうつは見逃されがちだが、子どもは傷ついている

都会の雑踏の中、ラッシュアワーに制服を着て登下校する子どもたちを、改めて、大変そうだなと思う。出生率が低下しているのに、変わらないお受験、小学受験や中学受験に、違和感もある。子どもの世界は、ストレスフルだ。

子ども時代こそ、遊ぶことが大事だ。幼稚園教育要領にも、厚労省の保育所保育指針にも明示されている。だが現実は、情報過多な時代に、忙しい親の元、子どもは管理され、課題を与えられ、余白のない時間を過ごしている。果たしてそれは、大人の自己満足なのではないか、と思ったりする。アクティビティを入れて管理したい親の自己満足と、そのニーズに応える教育ビジネス産業の利益に、子どもは挟まれている。学歴厨のような価値観や受験戦争や偏差値主義は、メンタルヘルスに良くない。

私は子どもにこそ、安全に純粋に遊んでほしいと切に願う。私自身は子ども時代、数々のトラウマを抱えて生きてきた。保育園での体罰の犠牲者として、性的被害者として、震災による被災者として、学校や塾でのいじめの被害者として。しかし、それらに蓋をして大人になった。自分が、被害者であったこと、複数のトラウマを抱えていたことに自省できたのは、中年になってからだ。まるでパンドラの箱を開けたように、闇と涙は溢れ出た。

しかし、もし同じような境遇な人がいたとしても、安心してほしい。あなたが、どんなに複数のトラウマを抱えていても、いつか、あなたのしたいことはできる。いつか学校にいける。いつか就職はできる。いつか恋愛はできる。いつか育児はできる。もしあなたが望むならば。そして、そんなトラウマを抱えたあなただからこそ、持てる視点がある。それが、家族を含む、人への合理的で丁寧な配慮だ。その高い察知力を武器に、しなやかに生きていってほしい。

私は、自分が働き、子育てをしていく中で、数十年もの時間をかけて、自分が子ども時代に受けてきたトラウマを思い出し、PTSDに気づいた。子どもは、経験と知恵が未熟だから、つらい体験をうまく言語化して昇華できない。つらい経験が蓄積して、いつか心身に現れる。それを現実に体感して以降、私は人にやさしくなった。

私があまねく子どもたちにやさしいのは、私が子ども時分に受けたような被害者的な経験を、次世代を生きる子どもたちにさせたくないからだ。私が保育士資格を社会人の合間に取ったのも、児童福祉と社会的養護について学びなおしたかったからだ。私が同僚や社会の人々にハラスメント行為をしないのも、身近な人に傷ついてほしくないからだ。

私自身は、子ども時代に、純粋に楽しんで生きられなかったけれど、その連鎖は次世代と社会に負債のように残したくない。だから、そのトラウマから得た気づきや学びを、どうにかしてポジティブに還元できるとしたら、それは人へのやさしさだと思っている。

子ども時代に傷ついた人へ。希望をもって生きてほしい。今の自分がとれる行動をとるだけで価値がある。悲しみには、意味がある。弱さには、伸びしろがある。

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