『 ウ ク ラ イ ナ 』
論文の修正がやっとひと段落したところで、朝美からラインが届いた。〈また、ロシアが核兵器をちらつかせて、脅しをかけているわ。許せん!〉〈ほんと、ひどいね!狂気としか思えない〉
〈私たちも抗議の意思を示すべきだよ〉
〈会長に同感!何をやろうか?〉
〈そこなのよ、問題は。和葉の考えは?〉
〈うーん……ダメ。今は脳死状態だわ〉
〈微力だけど、無力じゃない……違う?〉
〈懐かしい。高校生の頃を思い出す〉
〈何か新しい取り組みができないかな、世界の人たちと一緒にさ〉
〈やっぱり、SNSを使ってやるのかな?〉
〈私、本気だから。来週の平和研の例会で話し合おう。じゃあ、論文、がんばって!〉
〈承知。バイバイ!〉
と返信して、私はスマホを机の上に置いた。思わずため息が出た。
五年前に国連の条約交渉会議で百二十二か国の賛成で核兵器禁止条約が採択され、二年前に批准国が五十か国を越えて条約が発効したと喜んだのも束の間、冷水を浴びせるようにロシアのウクライナ侵攻で現実に核使用の脅威がこれまでになく高まってしまった。
ロシアの傍若無人な振る舞いに怒りを覚えたが、それにも増して核のボタンを握った為政者の狂気を止める術がない現実に恐怖を感じた。
やはり核兵器をなくす以外に方法はないのだと改めて思ったが、では自分に何ができるのかと問うてみても答えは容易に見出せない。
「和葉、入るよ」
部屋に入ってきた母は、手に持っていた油紙に包まれたものを私に差し出した。
「おじいちゃんの机の中から、こんなものが出てきたのよ」
母は曾祖父の遺品整理の手伝いに行っていた実家から、さっき帰ってきたばかりだった。
「何、それ?」
「おじいちゃんの戦争体験記なのよ。あなたも平和運動に参加しているんだから、読んでみたらどうかと思って」
渡された油紙を開いてみると、『私の追想録』と記された手作りの冊子だった。
少し黄色く変色した厚手の表紙に達筆な墨書で題字と名前が記され、中の原稿用紙には万年筆で丁寧な文字が綴られていた。
骨休めに散歩に出掛けようと、冊子を携えて階下に降りていくと、母はすでにテレビに釘付けになっていた。この頃は暇さえあれば、イタリア映画の『ひまわり』のビデオを飽きることなく観ている。
哀愁の漂う音楽とともに、広大なひまわり畑が画面に映し出されていたが、カメラは一転してロシア戦線での行方不明兵を尋ねる紙が貼られた壁面に切り替わり、役所の窓口で夫アントニオの安否を激しい口調で尋ねるジョバンナの姿となった。
そこまで観てから、私は外に出た。久し振りに暖かな日差しが長崎港に降り注ぎ、遠く南山手の街並みが霞んで見えた。家を出ていつもの散歩道を五分も歩けば、悟真寺の裏手斜面に広がる広大な稲佐国際墓地の参道入口に着く。
墓地を左右に切り分けるように斜面地に伸びる参道には、両側に胸ほどの高さの煉瓦塀が連続して築かれ、ちょうど正面上空に稲佐山頂上のテレビ塔が見える。奥に進むに従い楠の大木が上空を覆って日差しを遮り、地面には木漏れ日が揺れていた。
古い中国人墓地を通り過ぎ、坂道を墓地の中ほどまで進むと、左手の煉瓦塀に設えられた鉄の門扉を開けた。入ってすぐ日ソ友好の碑が立っている。幕末の開国時まで遡るロシア人墓地だ。
この一角だけは背の高い針葉樹のメタセコイアがそそり立ち、そのほっそりと美しい樹形が死者たちに大陸の故郷を忍ばせているようだ。広い墓地には様々に意匠を凝らした十字架の墓碑が立ち並び、今は訪れる人もなく静かに佇んでいる。
明治三十七年に日露戦争が勃発するまで、長崎は極東ロシア海軍の保養地となっていたため、祖国を遠く離れた多くのロシア人たちでにぎわった。その頃亡くなったロシア人たちとともに、日露戦争で壊滅したバルチック艦隊の戦死者たちも、敵地となった長崎のこの墓地に葬られたと聞く。
私は墓所奥の港を一望できる木陰にいつものように腰を下ろし、持ってきた曾祖父の追想録を取り出した。曾祖父は終戦後も長くウクライナで抑留されていたと聞いたが、生前は戦争や抑留のことを何も語らなかったと母が言っていた。私は曾祖父の記憶を紐解くように、一枚一枚ゆっくりとページを捲った。
曾祖父は大正十年に有明海沿いの町で生まれ、昭和十四年に農学校を卒業すると、満州に理想郷建設の夢を求めて満蒙開拓少年義勇軍に参加した。水戸の訓練所で五か月間の訓練を受けたのち、新潟港から北朝鮮の羅津港に渡り、さらに満州東部の訓練所で二年間農事と軍事の訓練に明け暮れた。
昭和十六年末に召集を受けて満州の第三国境守備隊に配属され、満州東部の牡丹江近くの国境でソ連軍と対峙した。
追想録には、昭和二十年八月九日の真夜中に突然始まったソビエト軍侵攻の緊迫した戦況が詳しく記されていた。
不意に出現したソ連軍の機甲部隊との戦闘では、一キロと離れていない隣の連隊が全滅し、その夜に別れの盃を交わしたが、すんでのところで撤退命令が出されたことや、八月十四日夕に牡丹江河畔の海浪街で敵戦車部隊と大激戦となり、多数の戦死者を出しながらも侵攻を食い止めたが、撤退命令により砲火の中を命からがら離散逃避したことなど生々しい戦争体験が綴られていた。
曾祖父は八月十六日に終戦の詔勅が下されたことを知り、武装解除して日本海に近い海林捕虜収容所に収監され帰国を待った。
しかし、それが苦難の抑留生活の始まりだった。ソ連領内の捕虜収容所を転々とした挙句、シベリア鉄道の貨車に詰め込まれて一か月間揺られてウラル山脈の西、カスピ海に注ぐヴォルガ川の畔にあったエラブカ収容所に移送された。さらにウクライナ東部のドニプロ市にあった収容所に移され、ドイツ軍捕虜とともに製鉄工場の復旧に従事させられた末、からくも生還を果した。
三年間に及ぶ強制労働と抑留生活が、いかに過酷なものであったかがつぶさに記されていた。帰還する汽車から見たウクライナ平原の地平線まで続く黄色いヒマワリ畑の光景を、私は決して忘れることはないだろうと書かれていた。
私は、極東の日本海近くからウクライナまで、約七千キロメートルを股に掛けた厳しい抑留生活を生き抜いた曾祖父の強靭な意志と肉体に感嘆するとともに、その強運に感謝した。抑留された日本人は五十七万五千人、そのうち五万八千人が過酷な強制労働と劣悪な抑留環境の中で命を落とした。もし曾祖父が生還していなければ、当然に私はこの世に生を受けていない。
曾祖父の命の糸は戦争という破壊的な事象によって、細く頼りないものとなったが、曲がりなりにも私までその糸は繋がった。そのようにして幾世代にもわたって繋がれてきた私という命の糸に、不思議な感慨を覚えずにはいられなかった。
ふと気づくと、中年の痩せた女性が私の方に近づいてきていた。私は膝の上の冊子を閉じ、慌てて立ち上がった。
「こんにちは。珍しいわね、この墓地にこんな若いお嬢さんがお参りしているなんて。どなたか関係のある人でもいらっしゃるの?」
立ち止まった女性は持っていた水桶を降ろすと、長い髪を右手でかき上げて私を正面から見つめた。きれいな黒髪だったが、瞳の色は明らかに緑色をして、どこかエキゾチックな雰囲気を醸していた。見透かすような鋭い視線が私の体を瞬時に通過した。
「いえ、単なる近くの住人です。すみません、散歩の途中に勝手に入り込んでしまって」
私が頭を下げると、その人は途端に相好を崩し、申し訳なさそうにした。「いいのよ、怒っている訳じゃないの。むしろ、うれしいの。だって、ただでさえ訪れる人が少ないのに、ロシアがあんなひどい戦争を始めるものだから、余計に淋しい場所になってしまって。ここで眠っている人たちも、憤慨していると思うのよ。ここにはね、ウクライナの人も眠っているの。当時は同じ国の仲間だったから」
「そうなんですか、ここにウクライナの人も。ウクライナとロシアの関係って、愛憎相半ばするというか、とっても複雑で、日本人の私にはよく理解できない部分があります」
「そうね、本当は兄弟みたいに親密な国同士なんだけど、歴史の紆余曲折を経て進む道が違ってしまった結果、ロシア人のウクライナに対する想いが空回りして最悪の事態に陥ってしまっているものね。どうかしら、ここで会ったのも何かのご縁だから、よかったら少し墓地を案内しましょうか?」
「是非、お願いします!」
願ってもない申し出だった。この墓地にどんな人たちが眠っているのかも知らず、小さい頃からここで遊ぶのが好きだった。
意味も解らず墓碑に刻まれているロシア文字の美しさに見とれ、様々な幾何学文様や天使像に魅入られて、時を忘れて立ち尽くしていた記憶がある。幼い頃の私にとってここは、自分だけの不思議の国だった。
女性は「クロダマリナ」と名乗り、見ての通り八分の一はロシア人の血を受け継いでいるのと笑った。マリナさんの説明によると、この墓地に眠るロシア人の数は、名前が判っているだけでも五百人近くにも及ぶのだという。
わずか三歳で亡くなった幼児も居れば、親子が一緒に葬られているお墓もあった。中には、明治二十四年に長崎を訪れたロシア皇太子が乗っていたお召艦の乗組員のお墓もあった。後に皇帝となったニコライ二世だったが、ロシア革命によって妻や五人の子どもとともに銃殺されてしまった。また、コサック騎兵隊のお墓も幾つかあった。
「コサックと言えば、現在のウクライナ東部のザポリージャ辺りを本拠地にした勇猛果敢で知られた部族だったのよ」
ザポリージャと聴いて、私は戦争によって翻弄された原子力発電所を想い、曾祖父が苦難の抑留生活を送った街を思い浮かべた。
「ザポリージャの近くにドニプロという街がありますよね。そこは曾祖父が戦後長らく抑留されていた街なんです」
「そうだったの、奇遇ね。私は先月までドニプロに居たのよ。そこからザポリージャの救護施設に応援に行ったこともあるわ」
「えっ、あのザポリージャに。マリナさんは一体、何をされている方ですか?」
「私は医師よ。今は国境なき医師団で活動をしているの」
こんな華奢な女性がと、私は絶句した。
「大丈夫なんですか。ミサイルとか、砲弾なんかが飛んでこなかったですか?」
「あらゆるリスクを考慮して活動計画は立てられているし、紛争当事者とも調整して最大限の安全対策が取られているの。私たちの活動は、何処の国にも依存しない独立、中立、平等が言わば命綱ね。それでも、誤爆などで犠牲者が出ることは避けられないけど」
その後も事もなげに戦場の惨状を語る彼女を眩しく見つめながら、私は自分の今の生ぬるい環境が恥ずかしくてならなかった。
一番上の三段目の墓地に上がると、南側奥のひと際大きい錐台状の記念碑の前に立った。夥しい人の名前が台座に刻まれていた。
「ここにはね、日露戦争の戦死者とともに、捕虜となって日本各地の収容所で亡くなった百七十一名も一緒に葬られているの」
私はドキッとした。捕虜収容所で亡くなっているのは日本兵だけではなかった。ロシア兵たちもまた、日本の収容所で多く亡くなっていたことを初めて知った。胸が少し苦しくなった。
「こっちのお墓も見て」
マリナさんが指差したのは、記念碑の後ろの鉄柵で囲まれた三つの墓碑だった。
「ここのお墓は、ロシア革命で祖国を追われた人たちのものなの」
「革命で祖国を追われた?亡命者が長崎で暮らしていたということですか?」
私は頭が少し混乱した。シロア革命とは教科書の中だけで知る世界史上の大事件であって、まさか自分の住む街に関係者がいたなどとは考えもしなかった。
「ええ、左の墓碑はキーラという人のお墓なの。ペテルブルグで生まれて皇室音楽学校を卒業し、革命で亡命した後は長崎でピアノを教えて暮らしていたと聞いているわ。南山手の一角にはね、ロシアからの亡命者たちが助け合って暮らしていた家があったのよ。実は私の曾祖父も、その一人だったの」
マリナさんは、私を低い塀で囲われた墓地に案内した。墓碑の正面に遺影が飾られ、優しそうな白人の老人が微笑んでいた。私も手伝って墓地をきれいに掃除し、新しいお花をお供えして手を合わせた。
「祖国に帰りたかったでしょうに」と私が何気なく呟くと、「そうでもないのよ」と意外な言葉が彼女から返ってきた。
「祖母から聴いた話ではね、貿易商だった曾祖父は、国家とか国民なんていうものは支配者たちが勝手に創り出した幻想の産物なんだと言っていたそうなの。そんなくだらない妄想に縛られずに済む長崎の暮らしは最高だって、いつも楽しそうにしていたそうよ」
私には意味がよく呑み込めなかった。
「でも、国家がないと困りませんか?教育や福祉のこともあるし、他国から侵略された時、誰が私たちの住んでいる町や家族を守ってくれるんですか?」
マリナさんは、ふっと苦しそうな顔をした。
「では訊くけど、核兵器を作り、私たちの平穏な暮らしを破壊し、若者を戦場に強制的に駆り立て、人殺しを強制し、罪のない一般市民を殺戮する戦争を始めるのは、いったい何物かしら?」
「それは……、国家です」
私はそう答えるのが精一杯だった。
「国家とか、国民とかいう概念は、近代になって私たちを支配するために考え出されたものなのよ。明治になるまで、一般庶民が自分を日本国民だと思っていた人なんかいなかったと思う。それを外国と戦争するために大勢の兵隊が必要になったため、政府が教育によってみんなに日本国民という意識を植え付けたのよ。私たちのルーツのように語られる記紀神話や歴史は、時の支配者たちの物語であり歴史であって、私たちの大多数の祖先は逆に搾取され虐げられていた側なのに、それをあたかも私たちに共通した民族的な物語のように思い込ませて、私たちに国民として国家に奉仕するように強いるのよ。それも命をもってね」
マリナさんの熱のこもった話を聴きながら、私は眼の前に新しい世界が拓けていくような気がした。
「あっ、ごめんなさい。ついむきになってしまって。あなたにこんなことを話しても、困惑するだけだわね」
「いえ、とっても新鮮でした。私は今まで、日本国の存在や日本国民と呼ばれることに何の疑問も持たなかったけど、今胸の辺りがもやもやしてとっても気持ち悪いんですけど、とっても嬉しいような、変な気持ちです」
「それなら、よかった。国家があり、国境があるから、戦争を引き起こしてしまう。ヨーロッパは悲惨な戦争を教訓に、今EUとなって国境を無くそうと努力しているわ。最終的に世界が一つになる、それが理想ね。例えば日本だって、今すぐEUに加盟することだって不可能じゃないし、一定の自治権さえあれば国家を廃止してアメリカ合衆国の州の一つになったとしても、私たちはそんなに困らないんじゃないかしら。もっとも今も、日本はすべてアメリカの言いなりだから、アメリカの属州みたいなものだけどね。とにかく、国家は必ずしも絶対的なものじゃない、そう思わない?」
「本当ですね。国家や国境をなくすなんて、今まで考えたこともなかったなあ。世界が一つになるか。何かワクワクしますね」
「私たちが理想を見失わず、仲間を増やしながら少しずつでも前に進んで行けば、いつかきっとそんな世界が実現するわ。私たち一人一人は微力だけど、決して無力じゃない」
「あっ、その言葉、私たちも高校のとき使っていました」
「じゃあ、あなたは私の後輩かしら。私たちが作ったの、その合言葉」
「えー、そうなんですか。私たちは、一人ぼっちじゃない。思いさえ持ち続ければ、どこかでつながれる、そんな気がしてきました。先ずは、同じ志を持つ仲間を一人でも多く増やしていくことですね」
「社会を変革する力って、初めは目に見えないような小さな変化だけど、その変化が次第に積み重なってある点を越えたときに爆発的な変化を引き起こすものよ。私たちの小さな力も諦めないで積み重ねていけば、きっとどこかの時点で世界を変革するうねりを作り出せるはずよ。ある論文ではね、人口の三.五%の人が真剣に取り組んだ運動で、成功しなかったものは無いそうよ」
「何か私、とっても嬉しくなってきました。明日からまた、頑張れそうです」
マリナさんはふっと悲しい顔をした。
「私、二週間後にはまたウクライナに戻るの。こうしている間にも、傷つき倒れ、治療を受けられない人たちが沢山いるから。この戦争の終着点はまだ見えないけど、ロシアに対する拭いがたい憎しみと嫌悪と不信を後に残すことだけは間違いない。でも、憎悪からはさらなる憎悪しか生まれないわ。私たちがこの戦争から何を学ぶかに、世界の将来がかかっていると思うの。私には、この戦争を契機に世界が大きく変わる予感がする。核の問題も、きっと何か新しいアクションが起きるわ。だって、核の傘なんて嘘っぱちだってことがはっきりしたじゃない。日本が核攻撃を受けたからと言って、アメリカがその相手国に核兵器で報復したら、今度は自分の国が核攻撃の標的になるし、第三次世界大戦を引き起こすかも知れない。そんな危険をアメリカ国民が許すはずがないわ。そして今度のことで、核保有国を信用してはいけないことを世界は学んだはずよ。核保有国同士では核抑止は働くけど、核を持たない国に対しては戦況次第でその使用も辞さないことが明らかになったから。それはアメリカやイギリスだって同じよ。いつロシアのようにならないとも限らない。日本政府は厳しい現実をもっと直視して、今こそ核兵器廃絶条約に加わり、核保有国の欺瞞を厳しく糾弾すべきなのよ。核を持たない国同士が一致団結して、核保有国に核兵器の廃絶を迫るべきときだと思うの。私は、長崎からその波を起こせたらいいなって願っている。だって長崎は、原爆の惨禍を世界に伝え、これまで核兵器廃絶運動の先頭に立ってきた経験と叡智を持っている街なんだから」
彼女は温かい笑みを浮かべ、眼差しを遠く霞む浦上の街に向けた。
「今まさに、大いなるものが傾こうとしている」
マリナさんは、ぽつりとつぶやいた。
「時間は、そう残されていない。そんな気がしてしょうがないの」
マリナさんとは、朝美も一緒に核兵器禁止条約の会・長崎と長崎大学核兵器廃絶研究センターを訪問する約束をして別れた。
散歩から帰ると、母は相変わらず『ひまわり』を観ていた。
私は母の隣に黙って座った。場面はヘンリー・マンシーニの切ない音楽とともに、ロシアの家族の元に戻っていくアントニオが乗った汽車が段々と遠ざかり、その姿を駅のホームで見送るジョバンナが堪え切れずに咽び泣くラストシーンだった。
エンドロールの背景では、見渡すかぎり平原を埋め尽くす黄色いヒマワリが風に揺れていた。母は私の顔を見て、悲しい笑みを浮かべた。このヒマワリ畑の光景は、ドニプロからそう遠くないポルタヴァという街の近くで撮影されたものだと母は言った。
私は、遥か六千キロの彼方に広がる平原に思いを馳せた。そこは依然として、理不尽な暴力と破壊と殺戮が横行している世界だった。
戦車や装甲車が街や農地を無残に踏みにじり、夥しい数の市民や兵士たちの血が滲み込んだウクライナの大地に、ヒマワリは今年も花を咲かせるだろうか。
(おわり)
下記に第7回宮古島文学賞第1席『水平線』の掲載アドレスを掲げています。
宮古島で生きる女性の生と死を豊かな自然と文化の中で見つめた作品です。ご一読くだればと思います。
suiheisen.pdf (miyakobunka.com)
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