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狩猟者が住職と飲んだ話

僕は、動物の命を奪って肉を食らっています。

以前から、

狩猟は楽しい。
だけど命を奪うことに思うことがある。

と書いてきました。

思うことがあるというのは、罪悪感かもしれません。
何か悪いことをしているのではと感じることがあるのです。

しかし、法律的には間違ったことはしていません。

そこで、僕は宗教的には、自分のやっている狩猟が、
どう判断されるんだろうと思い調べました。
許される宗教、許されない宗教がありました。

先日、浄土真宗の住職と飲む機会があり、
狩猟を通じた自分の変化を話す時間がありました。

そもそも仏教はインドで釈迦がつくりました。
当時のインドは、階級社会。
階級の上層は肉を食べても殺さない。肉を殺すのは、下層の人たち。
バラモンといわれる最上位層は肉も食べない人も多いとか。。
この階級制度に疑問を呈し、釈迦は仏教をつくりました。
釈迦の死因は豚に当たったからという話もあるそうです。
ブッダも肉を食っていたのです。

そもそも精進料理など肉類を食べない思想になったのは、1世紀の大乗仏教
だそう。
釈迦が生きたのが紀元前5世紀より前といわれているので、
数百年後に付け加えられたことになります。

この動物を殺して食べることを悪とする考えが、
部落を産んだとも考えられるとのこと。
仏教が日本の差別階級を産んだとも言えるのではとのことでした。

天上天下唯我独尊。

とは違う考えです。

話は少しずれますが、
「世界屠畜紀行」という本の中に本当の屠殺とは、
自分が可愛がって育てた動物を殺して
食べることにあると書かれていました。

自分が育てたものを殺して食べることができるだろうか?

愛情込めて育てた動物と、連続殺人犯どちらか殺しなさいと言われたら
僕はどちらを選ぶのかと考えた時、
命の重さについてわからなくなりました。

「息子と狩猟に」はそういった命の重さについて書かれている本です。

自分が気持ちをかけるから、「想い」が生まれる。
知らない人の葬儀で涙は出ません。
そうなると結局、自分本位で大切なものを選んでいるだけです。
最後まで自分本位から離れられない。それが人間だと。
それについて、迷い、考え続けることが大切。
と住職は教えてくれました。

僕は週末に狩猟することで、
死が身近なものになりました。
ずっと死ぬのが怖くてダメになっちゃうような人間でした。
今でも、自分が死ぬのは怖いけど、まぁいずれくるものだなという覚悟に
似たようなものがいつも周りに浮かぶようになりました。

住職はこうもいいました。

親鸞も死ぬの怖かったみたいですよ。
もちろん私も怖いです。
死んでも無にならないと信じているのに。

その言葉がなんだか勇気をくれました。


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