見出し画像

摧邪輪(ざいじゃりん)明恵 vs 法然 & opp 親鸞

摧邪輪とは
鎌倉時代初期の建暦2年(1212年)、華厳宗中興の祖といわれる明恵上人高弁法然が撰述した『選択本願念仏集』に対し、それを邪見であるとして反駁するために著述した仏教書。全3巻。書名は「邪輪(よこしまな法説)を摧(くだ)く」の意。
華厳宗中興の祖といわれる高弁(1173年-1232年)は、紀伊国で平重国の子として生まれ、「明恵上人」の名で知られる。文治4年(1188年)、上覚を師として出家し、東大寺戒壇で受戒した高弁は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇の院宣により京都北郊の栂尾に高山寺をひらいた。かれは、仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践した遁世僧である。
『摧邪輪』の正式な表記は『於一向専修宗選択集中摧邪輪』。法然が『選択本願念仏集』にて唱えた教説、すなわち称名念仏こそが浄土往生の正業であり、もっぱら念仏を唱えることによって救われるとする専修念仏に対し、高弁は大乗仏教における発菩提心(悟りを得たいと願う心)が欠けているとして、激しくこれを非難している。
執筆の経緯
高弁(明恵)が山中の松林の樹上で坐禅を組むすがたを、弟子の恵日房成忍が筆写したものといわれる。
高弁が『摧邪輪』を著したのは、建暦2年11月23日(グレゴリオ暦:1212年12月24日)のことであり、浄土宗の開祖法然が没した直後であった。当初高弁は、『摧邪輪』序に述べるように法然に対しては「深く仰信を懐」いており、浄土門の教徒について「聞くところの種々の邪見は、在家の男女等、上人の高名を仮りて妄説するところ」と考えて、法然に対しては批判するつもりはなく。それゆえ、法然の撰述した『選択本願念仏集』(以下『選択集』と記す)に対しても「上人の妙釈を礼」しうることを喜んだが、実際に『選択集』を被聞し、その内容を知るにおよんで、念仏門徒の「種々の邪見は皆此書より起る」と考えるようになり、その教義を批判する立場をとるようになった。
法然批判
九条兼実の求めに応じて撰述された『選択集』は、「弥陀の本願」たる念仏のゆえんを明らかにし、専修念仏普及の理論的著作となったが、そのなかに、菩提心を廃し、また、浄土門以外の宗派を「聖道門」と称して「群賊」にたとえることがあった。高弁は、特に「一、菩提心を撥去する過失。二、聖道門を以て群賊悪獣に譬ふる過失」の2点について法然の二大過失として厳しく批判し、これを含めた13の過失を掲げて『選択集』を批判した。
このなかで聖道門を「群賊」とたとえるのは、善導の『観経疏』における三心釈のうち廻向発願心釈において示される二河白道のたとえ(「二河白道譬」)のなかに出てくる語である。ただし、法然は廻向発願心の解釈を善導の解釈に委ねており、『選択集』では自らの解釈を述べていない。このことから法然は、聖道門をただちに群賊とするものではないとの見方も可能であるが、高弁は法然の解釈を群賊にたとえたものとして批判した。この所論には高弁の善導観が大きく作用しており、高弁は、善導の注釈は一切衆生のあらゆる機根を対象にしたものではなく、一類の凡夫を導くためのものであり、それは菩薩や諸師があらゆる機会に教えを説く方法と同様であって、説示の対象の異なる諸師間の解釈の是非を論じたものではないとし、『選択集』の内容は、正見と悪見の区別や諸法の存在意義などを考慮しない、仏教からの逸脱であるとして批判した。
より本質的には、前掲したように高弁は菩提心は仏道を求める根本であるとしており、本書の大部分は菩提心の扱い方の不適切さに対する非難にあてられている。菩提心とは、菩提(悟りや仏果)を得ようと志向実践する心を意味しており、仏道修行を志す者はすべてまず初めに菩提心を発さなければならない。菩提心を発することにより、人は菩提を求めて仏道修行の道を歩むことができるのであり、それを否定することは仏教者としての自身のあり方を否定することにほかならない。しかるに『選択集』で菩提心が否定・「選捨」されている。高弁は、「浄土家」においても発菩提心が基本とされていることを指摘したうえで、大乗仏教の基本であり、法無我平等の義に立つ菩提心を否定し、これに代えて至誠心・深心・廻向発願心の三心を浄土往生の行であると説く法然の所論は、結局のところ大乗仏教そのものの否定につながる大過失であると説く。高弁にとって、浄土教のいう信心と『華厳経』で特に高唱される菩提心とはまったく異なるものであり、法然の菩提心否定は、大乗仏教の根本理念から逸脱し、聖浄二門建立の本旨に反するだけでなく、善導の念仏思想の本義にも違背するものであった。
かくして、本書は、専修念仏に対する「聖道門」側の最初の教義的批判書となった。『摧邪輪』に先だつ元久2年(1205年)には奈良興福寺の衆徒が専修念仏の禁止を求めて朝廷に対し『興福寺奏状』を提出しているが、これはもっぱら法然と浄土教に対する社会的現象面からの批判にすぎなかったのである。なお、本書巻頭には、法然に自作の文が少ないという風聞のあることを指摘している。また、奥書には「高命を蒙り進上する」と記されているが、この「高命」とは後鳥羽上皇の命令ではなかったかという説がある。
翌建暦3年6月22日(グレゴリオ暦:1213年7月18日)には『摧邪輪荘厳記』(ざいじゃりんしょうごんき)1巻を著述し、さらに3点の論難を追加し、法然の16過失として掲げて『摧邪輪』における自らの論旨を補足した。
影響その他
本書に対しては、法然の門徒や門流からの反論も数種現れている。そのうち、了慧の『扶選択正論通義』『新扶選択報恩集』はいずれも『浄土宗全書』第8巻に収載されている。また、藤場俊基によれば、親鸞の『教行信証』は『摧邪輪』の法然批判に対して書かれたものであるという

wikipedia

栂尾(とがのお)明恵上人の作品『摧邪輪』および『摧邪輪荘厳記』(以下『荘厳記』)は、法然上人の『選択本願念仏集』に対する批判的な立場から書かれた。これらの著作は、鎌倉時代初期の仏教界の変革の中で重要な役割を果たし、特に親鸞の思想との関連性を考える上で重要である。法然が専修念仏の道を開き、既存の仏教宗派と一線を画すことは、日本仏教史における新しい動きの始まりであった。この時代の動きは、新旧の仏教宗派の指導者たちによって活発に議論された。

平安時代末期の法然による浄土宗の創設は、民衆の願いを反映し、新たな宗教改革の一環と見なされる。この動きは、後の鎌倉新仏教運動の始まりとして重要である。この影響は一般民衆だけでなく、他の仏教宗派にも及んだ。法然の改革に対する反応は、特に南都の仏教界から激しいものであった。この中で、明恵上人は、法然の『選択集』を批判する主要な仏教学者の一人であった。

明恵は、厳格な戒律と深い学識を持つ仏教学者として知られており、法然の教えに対して思想的、理論的な批判を行った。彼の批判は、単なる現象面の批判に留まらず、法然の教義そのものに焦点を当てていた。この批判は、浄土門にとって重要な課題を提起し、後世においても論議の対象となった。

法然の思想と明恵の思想的対立を融合し、止揚することは、後世の仏教学者たちにとっての重要な課題であった。この流れの中で、親鸞の『顕浄土真実教行証文類』が、明恵の批判に対して法然の思想を継承し、体系的に応答した重要な作品である。

明恵の生涯は、仏教学と実践の両面で密度の濃いものであった。幼少期に両親を失い、仏教の修行を積んだ。彼は、華厳宗と密教を中心に学び、多くの禅観の修習を行った。彼の研究と実践は、奈良や紀州有田など、様々な場所で行われた。また、彼は生涯を通じて多くの夢を見て記録したことでも知られる。これは彼の宗教的素質を示している。

法然自身、念仏三昧中の神秘的な体験を『夢感聖相記』に記しており、その夢想は『三昧発得記』にも詳述されている。明恵と法然は、同時期に夢想の記録を行っており、彼らの思想と宗教的体験は密接に関連していると考えらる。

明恵は、仏道修行において多様な禅観の法を追求し、学問的には華厳と密教を融合させた「厳密の始祖」と称されるほどの人物。また、彼は持戒・持律を徹底し、禅者としても活動していた。名利を避け、隠遁的な生活を送りつつ、釈尊への深い尊敬の念を持ち続けていた。

明恵は、若年期から名利を避ける傾向があり、その宗教的志向は彼の一生にわたって続きました。彼は、日本やインドへの渡航を計画するなど、求道者としての生涯を送る。彼の独自の宗教的体験や夢想は、彼の学問と実践の深さを示している。

彼の『摧邪輪』と『選択集』への批判は、法然没後になされたもので、これは偶然ではなく、彼の深い思想的関心に基づいていたと考えられる。『摧邪輪』は、法然の『選択集』が一般庶民を対象に書かれたものではないことを示しており、その内容は漢文で書かれた可能性が高い。

明恵の生涯は、孤独な修行者としての姿を示している。彼は、仏道修行において厳格な禅定と三昧に没入し、その献身は時に極端な形を取った。彼の死に対する観念は、彼の内面の世界において積極的に昇華され、その宗教的体験は深い教訓を含んでいた。このように、明恵の生涯と思想は、日本の仏教史において重要な位置を占めている。

『選択集』の執筆時期には諸説あるが、法然上人が66歳以降に書いたことは間違いない。『選択集』の刊行は、法然の死後半年余り後のことである。明恵が『摧邪輪』三巻をその年の十一月二十三日に書き上げたことは、彼の迅速な執筆を示している。彼は『選択集』の複数の版を持っており、これは彼の深い関心と準備を示す。さらに、翌年の六月二十二日には『摧邪輪荘厳記』も著した。これは彼の深い関心と、40歳までに蓄積した広範な学識と深い思索を示すものだ。

明恵は隠遁的で名利を嫌い、禅観修行を常としていたが、師の招きに応じて栂尾で弟子の教育に携わり、善妙寺の設立に従事した。これは彼の学徳の充実と円熟に基づく自然な成り行きだった。彼は他人の非を論じることを戒め、他人の言行に対しても極度の戒心を持っていた。この背景から、『摧邪輪』および『荘厳記』における『選択集』への厳しい批判はどう評価されるべきか疑問が生じる。明恵は禅観瞑想を中心とした修道生活を送る厳しい持戒者で、名利を遠ざけ、内観的傾向が強く、隠者的風格が濃厚だった。

明恵が法然を批判する『摧邪輪』及び『荘厳記』を著した動機は彼の正義感と潔癖性にあった。『摧邪輪』の執筆動機は、建暦二年秋の講経説法の際に『選択集』に対する論難を加えたことから始まった。彼はこの書を著述する理由を「梵網戒本」からの引用で説明している。彼は法然の『選択集』の主張を仏を誹謗するものと見なし、心の痛みから黙坐忍受せず、社会的影響を考慮して『摧邪輪』を急いで執筆した。

『摧邪輪』では『選択集』の過失として十三過、『荘厳記』では三過を指摘している。特に菩提心に関連する過失が多い。これは、元久二年十月に貞慶が草した「興福寺奏状」で指摘された九過とは異なり、菩提心が問題とされている。

文治二年、大原の勝林院で行われた大原談義に貞慶が聴聞者として参加したことは歴史的事実である。この時以外にも貞慶が法然と出会った可能性はあるが、『奏状』起草時の貞慶の念仏宗義への理解は、『選択集』が法然によって著される以前のもので、専修念仏者の行状を中心とした伝聞が主であったと考えられる。当時の南都仏教を牽引していた貞慶と明恵は、持律堅固で名利を厭う隠者的傾向を持つ仏者であり、共に神明を尊び、兜率の弥勒に対する信仰を持つなど共通点が多かったが、菩提心の重要性に関する信念の強さでは、明恵が貞慶を凌駕していた。これは『選択集』批判の二著に顕著に現れている。

『摧邪輪』は、菩提心を欠いた法然を弾劾する書であり、同時に明恵の菩提心理解を広範囲にわたり詳述したものである。その内容は、長年の内観と思索に裏打ちされた学識の基盤上に成り立っており、短期間の作成にも関わらずその深さが顕著である。『摧邪輪』が挙げる十三過のうち、第六過以下には『奏状』の九失と共通する点が多い。例えば、阿弥陀の光が念仏者のみを照らすという主張への批判は、当時の念仏者に広く受け入れられていたことを示している。

しかし、『奏状』における貞慶の着眼点は、主に社会事象に関連しており、教義的な深い掘り下げは『摧邪輪』の独自の特色である。『荘厳記』は『摧邪輪』に対する補遺と敷衍の役割を持っている。両書の執筆の間にわずか七カ月の時間的間隔があり、この短期間にも関わらず、明恵の強い正義感が如実に表れている。

両書には法然を糾弾する激しい譴責の言葉が散見される。これらは明恵の通常の温厚なイメージとは異なる激越な調子であるが、その背景には彼の深い所信があり、彼の冷静で豊富な教証に基づく精緻な議論が伴っている。これらの譴責の言葉は、長々と論じた内容の要約としての性格を持ち、明恵の主張する所信の方向性がよく理解できる。

明恵が『選択集』について挙げた十六種の過失のうち、『荘厳記』の冒頭で最初の十を大過、残りの六を小過としている。この大過は大きく二つに分けられる。一つは菩提心を撥去する過失、もう一つは聖道門を群賊に例える過失である。特に菩提心撥去の過は五段階に分けて詳しく論じられており、明恵が菩提心の問題をどれだけ重視していたかが伺える。

明恵と法然の菩提心論の大きな相違点は、法然が菩提心を余行の一つとして数えて排除したのに対し、明恵はこれを法無我平等の心として実体視し、外道の神我見と同一視することを非難していることである。明恵は菩提心が仏門において終始不可欠であると論じ、擁護している。この議論は菩提心の意味論に深く関わり、法然亡き後の明恵は『選択集』で用いられた言葉に依拠して論を進めている。法然が定義した菩提心の微妙なニュアンスは無視され、明恵の徹底的な批判の対象となった。

明恵は法然に対して、菩提心を捨てて称名を取ることを批判し、菩提心を有上小利、称名を無上大利と見なすことを逆倒だと難じる。また、全ての人に専称を勧めることが理に合わないとし、仏教経典に照らし合わせて菩提心の重要性を説き、その撥去や軽視は仏弟子として不適切だと主張する。

明恵の『摧邪輪』は法然の『選択集』への本質論に基づく批判であるが、法然の基本的な考え方は現実の凡夫を念頭に置いたもので、菩提心は念仏と並行して位置づけられていた。しかし、明恵は初発の菩提心を重視し、念仏は菩提心に依存して成就すると主張する。

『選択集』自体は菩提心義を中心に著わされたものではなく、法然の門弟が伝える言葉によると、法然は菩提心を念仏の助業と見なしていた。これは『選択集』の主張と一致する。

法然の立場を理解し、明恵の批判に応える体系的な論証は親鸞の『教行信証』及び『愚禿鈔』などの著作に見られる。これらの著作は和文ではなく漢文で書かれ、他力廻向の信が菩提心の本質であることを強調し、詳細に論じている。親鸞は京都を発表の場所として選び、菩提心義を明確にし、法然への報恩の念を示している。

親鸞の著作は信心告白的であり、明恵や貞慶を代表とする聖道諸宗や旧仏教諸派、時代や歴史からの問いに対する応答としての性格を持っている。『摧邪輪』が法然に対して言及した書であるのに対し、『教行信証』や『愚禿鈔』は問い主を明示せず、より普遍的な意義を持つ問いに対する応答となっている。

[参考文献:坂東性純(ばんどうしょうじゅん)/『摧邪輪』の背景とその性格(大谷學報 第53巻 第4号:大谷學會-1974年03月)]

#仏教  #仏陀 #ブッダ #法然 #親鸞 #明恵

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?