保守的な農耕民族の価値観を捨て、狩猟民族の価値観でイノベーションに挑むべし
農耕民族である日本人は、構造化された仕組みやルールが一度できるとそれを守ることに必死になる。目的よりも仕組みやルールが重要なのだ。
農業は、春に種を植え、夏に育ち、秋に収穫するという季節の流れとともにルーチン作業だ。このルーチンを徹底的に守ることが安定した収穫には必要となる。ちょっとでも違うことに挑戦して収穫量が激減すれば、命に直結するからルーチンを守ることに必死になる。
収穫物を効率よく分配するために、権力構造が生まれ、法が整備され、政治が行われる。既得権益がそこに組み込まれることで、さらにルールを徹底的に守る力学が働く。
日本人が一度作ったルールや構造を壊すことに保守的で変化を恐れるのは、農耕民族としての恐怖がDNAに組み込まれているがゆえだ。
それは決して悪いことではない。作られた仕組みの上で、命の安全が保障されたがゆえ、日本文明は花開いた。江戸時代という長期に安定した政権が保たれ、戦争がなくなった600年間というのは、日本人の「道の追求」という民族性を強固なものにするには十分だったのだろう。
かくして日本人の「モノづくり」と「真面目さ」は世界で目を見張るものをもち、高度経済成長を実現しながら、システム思考によるルールメイクやプラットフォームにおいてアングロサクソンから遅れをとり、失われた30年へと突入したわけだ。
対して狩猟民族は、まさにイノベーションに適した性質を持つ。安定して獲物が取れるわけではない中で、常に挑戦と失敗と改善の繰り返しの中で生きてきた。安定することなく、日々挑戦を繰り返さなければ生きていけない。
力を持つものが、より大きなリスクをとって、大きな成果をあげる。それが賞賛される。力なきものは、力のあるものに守られる必要があり、それによって役割分担が明確になっていく。
人に仕事がつくのではなく、役割に仕事がつく。成果をあげるための試行錯誤が前提であり、失敗に寛容である。リスクをとった博打に成功すれば、それまでの失敗はリカバリーされる。まさに狩猟民族の気質はイノベーションにおける行動とマインドそのものだ。
日本で権力を握るのは、農耕民族の気質を持ったまま高度経済成長を経験し、成功体験に縛られたものたちだ。それがいわゆる「老害」となってイノベーションの足を引っ張る。
しかしもはやイノベーションを成し得ることのできなかったその先に、僕らの未来はない。今の日本に「変革」を避けては未来はない。はっきりと捨て去るべき価値観を認識し、変わるべき価値観を自覚すべきだ。
もちろん農耕民族が作り出した、安心と安定という素晴らしい社会を捨て去る必要はない。安定的に売り上げを稼いでいる既存事業で、挑戦をすることが必ずしも正しいわけではない。だから全員が変わる必要があるわけではないのだ。
まさに両利きの経営。農耕民族では異分子と見做され、排除されてきたような、リスクを厭わず未来に果敢にベットする狩猟民族に、イノベーションを任せる。その役割分担を両立させることこそ、今の日本には強く求められるのだ。
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