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「こうあるべき」ばかりを押し付ける生きづらい世の中に「多様性」の理解を促したい

SNS全盛の時代において、タイムラインを眺めていると結構な頻度で「あるべき論」が流れてくるのをみなさんもよく目にすることと思います。

・仕事ができる人は、チャットやメールは即レス
・優先順位を設定して物事に挑め
・締め切りを必ず設定して仕事をする
・毎日コツコツ積み上げることが大きな成果に繋がる
・体調管理は仕事のうち
などなど。

こういうものを「プロフェッショナリティ」として謳うといいね数やビュー数が伸びるのでしょうか。大手のメディアでも、個人のSNSでも、繰り返し投稿されてはバズっています。

不確実性の高い時代において、過去の正解が正解でなくなり、何が正解かわからないと迷っている目の前に、正解らしきものがぶらさがって飛びついているように、ボクには見えています。

そのなかにおいて、まるでそれが全ての人たちにとってのあるべきことのような言調で語られることにボクは常々違和感を感じていました。確かに論理的には納得できる内容ばかりではありますが、全ての人にとってそれが「あるべき」と断定できるものなのでしょうか

なにしろ、ボク自身がこれらの「あるべき」を出来ないからです。

仕事ができる人は、チャットやメールは即レス

チャットやメールはボクにとっては、耐え難いほど苦痛な仕事です。

相手の気持ちを慮る力が圧倒的に欠如しているボクにとって、まず送られたメッセージを意図から読み解くのに時間がかかります。

また同様に相手にこちらの意図をどう伝えるか。書き上げたメッセージを何度も推敲してから送ります。

即レスなんかできないのです。そうこうしているうちに気付けば1週間経つことなんてよくあります。そして、忘れてしまって数年放置なんてことも...。

優先順位を設定して物事に挑め

優先順位の設定はできます。けれども、優先順位通りに仕事を進めることができません。

目の前に気になることができたら、それをこなさずに前に進むことが出来ないのです。ふと頭に思いついてしまったが最後、優先順位そっちのけでいま思いついた仕事に全力を注ぎます。

そうこうしているうちに大抵もとにやっていたタスクの存在を忘れます。誰もリマインドしてくれないものなら、期日を過ぎても思い出さないことなんて多々あります。

圧倒的にマルチタスクの処理能力は高いのですが、どうやら短期記憶メモリを積み忘れたようで、次から次にタスクをこなしているわりには、完了してる仕事の数は少ないのです。

締め切りを必ず設定して仕事をする

ボクの辞書に「締め切り」という言葉はありません。

まず走り出しが遅い。締め切りが1週間後とかになると、普通の人の1ヶ月後くらいの感覚で余裕をかまします。締め切りが1ヶ月後になると、それはもはや来年の話です。

「まだ大丈夫だ」と何の目算もなく見込みを立てて、最初の一歩目を余裕を持って踏み出したことがありません。そしてそのまま期日は過ぎていき、締め切り間際を迎えます。

3日前、2日前になっても、まだ慌てる時間じゃない。1日前になってようやく慌て出します。そして徹夜して明け方に完成します。もしくは明け方に謝罪の連絡を入れます。

もちろん締め切りがあることを忘れているわけではないのです。その期間ずっと心に残り「やらなきゃ、やらなきゃ」と思い続けているので、終わらない限り多大な心理的ストレスを感じています。

にも関わらず着手できない。早めに終わらせられない。それが複数のタスクで積み重なって、負のスパイラルから抜け出せなくなります。

毎日コツコツ積み上げることが大きな成果に繋がる

当然毎日コツコツ積み上げることなんてできません。ルーチンワークができないのです。

思いついた時に思いついたことをやっていたら気付いたら夜(ないし朝)を迎えてしまうので、毎日やろうと決意をしたことも、毎日続けることができません。

3日坊主なんていい方で、決意したその日にやらないなんてことも多々あります。結果的にいつまで経ってもアウトプットが完成しないし、新たなスキルが身につかない。

英語はいつまで経ってもできるようにならないし、ダイエットはいつまで経ってもできないのです。。。

体調管理は仕事のうち

そうしてストレスと睡眠不足が続いていくので、定期的に体調を崩します。月に1回ぐらいはお休みしないと続きません。。。

こんな話をしていたら、とある発達障害者支援をされている方から「ピンキーは発達障害だよ」と断言をされました。それを聞いた時に、ぶっちゃけなんだか楽になったんですよね。

いままで生きづらさをずっと感じていて、普通でいるための努力をいくらしても普通になれず、普通の努力ができないから成果を出すこともできない。

その中で精一杯もがいてもがいて、ここまで歩いてきたわけですが、その道のりは平坦ではありませんでした。辛く苦しい日々を過ごしてきたし、これからもそうなると思います。

しかしそれが「僕が不真面目である」とか「僕が無能である」とか、そういうことではないんだなーと。

まあ医者に診断を受けたわけではないので、本当にそうかどうかわからないですが、それがボクを楽にしてくれたのは事実です。

39歳にして自分の人生の生き方が少しわかった気がします。

できないことは諦めていい。できることで好きなことを徹底的に突き詰める。その結果、成果も出るようになったし、マーケットでのプレゼンスも獲得することが少しずつできている実感を感じます。

ボクの苦労の話はさておき、そういう人もいるということを理解してもらえたらと思い、書き記しました。

極論ですが、発達障害という言葉が、発達障害と発達障害でない人を区分けしていますが、はっきりいって愚行じゃないかとも思います。

世の中への生きづらさは皆等しく感じているでしょう。「あるべき」を押し付ける偽物のプロフェッショナリティが跋扈する世の中において、生きづらさを感じない人などいないはずです。

つまり、発達障害を「世の中の生きづらさを感じる人」と言い換えるなら、それは程度の差がグラデーションとしてそこに存在しているだけなのです。

人はそもそも多様な存在である
みんな違ってみんないい

それこそが未来が不確実な時代に、未来に生き続けるために必要な考え方に他なりません。

大事なことは「自分を知る」こと。自分の得意不得意をきちんと理解すること。「ありのまま」でいいのだということも同時に。そしてみんな、ありのままに生きる権利を有するのだ、ということも。

無理して不得意に取り組むことが必ずしも良いことなわけではありません。それは多大なストレスを感じることにもなりますし、不得意に取り組んだところで思うような成果が出ることもありません。

自分ができることにフォーカスする。人は一人で生きているわけではありません。人はみんなで生きているのです。ならばできないことを無理にできるようにする必要はないのです。それぞれが自らの得意と不得意を歯車のように噛み合わせるチームを作れば、1 × 1は10にも100にもできる組織が作れるはずです。

チームメンバーへの感謝の気持ちを互いに忘れず、それぞれのありのままで歯車を噛み合わせる。そうすることで成果を最大化していける環境が作れるのだと、ボクは信じています。

ネットで呟いてるだけなら便所の落書きと一緒なので生きづらさを抱える僕らは見なければ済む話ですが、「あるべき」を会社に持ち込んでくる「意識高い系」が権力を持っている組織は最悪です。

そういう似非プロフェッショナリティは、本質的なプロフェッショナリティとはかけ離れています。自分の信じる狭い世界だけのプロフェッショナリティを他人に押し付けて悦に浸う行為こそまさに「意識高い系」の典型でしょう。

本質的なプロフェッショナリティを身につけた本物は、人によって持っているプロフェッショナリティが違うことを理解し、互いに阻害せずにその調和をどう取るか、どう個性を発揮するかの環境や体制を作ることがマネジメントであると理解しています。

また同時に未来が不確実な時代にこそ、多様性が必要不可欠であることも理解しています。たった一人のプロフェッショナリティを押し付ける組織は、それが通用しない世界が訪れた瞬間に、時代とのギャップに押し潰されます。

しかし多様なプロフェッショナリティが調和した組織は、その変化にさえ柔軟に対応していきます。いかなる変化が起きても、それに対応できるメンバーを起点に組織全体に変化を促していけるから。可塑性の非常に高い組織とは、多様な個性が歯車のように噛み合っている組織に他なりません

「多様性ある社会を作るために、多様性に理解のないものを排除というのは自己矛盾がある」という指摘をすることで、多様性論者の揚げ足をとって論破だと宣言する軽薄な人間もいることも理解しています。

これははっきりと申し上げることができるとすれば、主義主張の話に対して、論理的に正しいかどうかということを必ずしも包含する必要はないと考えています。

自由の敵に、自由は認めず。

多様性を理解しない似非プロフェッショナリティは、組織やチームには受け入れるべきではない。それは未来への歩みを止める行為に他なりません。

不確実性が高い未来を生き抜くためにこそ、「あるべき」を振りかざし押し付けるのではなく、多様な個性を多様なままに活かす。それが世界から「生きづらさ」をなくし、共に手を取り未来を切り拓いてくことに繋がっていく。

「多様性」の理解こそが、現代に求められるマネジメントに必要不可欠ではないかと思うのです。

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