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【明清交代人物録】鄭芝龍(その十)

1644年、明王朝は李自成の軍隊に北京を落とされ崩壊します。そして、その直後李自成の軍隊は清王朝に反撃を受け潰走し、北京にドルゴンが入城。清王朝の時代が始まります。

中国の国土は非常に広大なため、この東北地方と北京で起きた事態に対し、江南や福建などの南方では、問題に対処するのにタイムラグがあります。
この明清交代といった事態に際し、鄭芝龍がとった対応の経過を見ていきましょう。
因みに、中国史では北京の明朝政権が崩壊した後に、中国南部に順次成立した王朝を"南明"と呼びます。


弘光帝政権の瓦解

まず初めに南京で成立したのが福王が擁立されて立った弘光帝です。
この福王というのはとても曰く付きの、問題のある皇族だった様です。明の時代の皇室というのは、中央の皇帝に権力を集中させるために、親戚を王として地方に送るという政策をとっています。そこで彼らには政治的実権を持たせず、悠々自適に暮らさせる。そのため、自堕落な生活を送る諸王が多かったようです。その中でもこの福王は最も悪評高い一人であったらしい。
この様な人物が皇帝に擁立された理由には、南明王朝内部の官僚派と宦官派の対立がありました。官僚派は別の王を擁立しようと考えていたのですが、宦官派に押し切られ福王が皇帝になってしまいます。宦官が自らコントロールしやすいロボットのような人物をトップに立てたわけです。そして、この王朝は実質的にほとんど機能せず、清朝の攻撃の前にあっけなく崩れ去ります。
この弘光王朝は南京で成立しており、鄭芝龍はこの王朝とは深い関わりを持っていません。


隆武帝の擁立

次に南明王朝の皇帝として擁立されたのは、唐王であった隆武帝です。この政権は福建で成立しており、必然的に鄭芝龍と深い関わりを持つことになります。
この皇帝は弘光帝よりはよほどマシだった様です。とても真面目に政務に取り組んでいます。政権内には文官として黃道周を用い、武官の筆頭として鄭芝龍を迎えます。この黄道周との関係の悪化が後に鄭芝龍が清朝に寝返る理由である様に書かれている本が多いのですが、僕はそれは俗人的な理由ではなく、もっと根本的な原因があったのだろうと考えています。

文官主導の統治システム

中国の歴史を見ていると、日本の武士社会と異なっていて、王朝を仕切るのが武人ではなく官僚、科挙の試験を通して採用された文官であるという特徴があります。王朝の中には文官の系統と武官の系統があり、常に優位に立っているのは文官です。明朝では、その文官の筆頭は首輔大學士と呼ばれ、皇帝の筆頭秘書の様な位置付けになります。
この様な歴史的な成り立ちを持っている統治システムの中で、鄭芝龍は武官の筆頭になってはいますが、文官には頭が上がらないわけです。最終決定権は常に黃道週にあります。

これは恐らく平時には問題がない。安定した社会であれば、文官と武官の職責は分かれており、互いに越権することはないわけです。南明になる前の段階ではこの問題は表面化することはなかったのが、清王朝に攻め込まれ、王朝の存続が危ぶまれるというような状態では、この文官主導の政権運営は無理があったのだと思われます。最終的に、黃道週は自己の主張する戦闘方法を実践するために、第一線に出陣し戦死してしまいます。

鄭成功が文官になるべく教育され、それを隆武帝に認められているというのも、鄭氏政権の中で文官としての地位を得る人物がでないと、王朝の中で最終的な指導権を得られないという問題意識があったのでしょう。
この息子に中国王朝の官僚となるべく、科挙の教育をさせたことが、後にこの親子の行末を分つことになります。

商売そのものがレーゾンデートル

もう一つ考えられるのが、そもそも鄭芝龍が明王朝の中に入り込んだ理由が、政治的な野心からではないということです。これまで経過を見てきたように、鄭芝龍かその初めから東シナ海の海上勢力にのし上がるのは、基本的に商売を有利に行うことに目標があります。この点を基調にして、オランダと折衝し、明朝の軍隊となりますが、基本的には商売のためです。
こう考えた場合に、彼には南明王朝側に立って最後まで戦う理由がありません。商売の元である商品は江南地方を主とした中国内陸部にあります。南明王朝の支配している福建と広東だけでは商品が供給されません。商売人としての立場では、早急に中国国内が安定した方が有利です。そう判断した場合に、明朝の体たらくを実地に経験していた彼からは、未来を清王朝に託した方が将来性があると考えても不思議ではありません。

清朝との接触

果たして、清朝からの内応の要請が行われます。この役目を負ったのは鄭芝龍の親戚筋に当たると見られる黄熙胤と、同じ福建泉州の生まれで清の征南軍の総司令官を務める洪承疇です。
この時の鄭芝龍の説得に務める2人の人物の背景を考えると、清朝側の人選が妙を得ているというよりは、泉州の黄家がそもそも明朝と清朝を天秤にかけており、既に明朝を見限っていたのだろうと考えています。
後でこの洪承疇という人物のことも書こうと考えていますが、この人物は明朝の武人として西の反乱軍を征伐し、途中から東北地方に送られそこで清軍に敗北してしまった将軍です。彼は明王朝の腐敗した統治機構の辛酸を舐め尽くした経験を持っています。
この人物に黄家の人物がついているということは、黄家はそもそも洪承疇のことをよく知っており、彼からの情報を適切に得ていた。西側の李自成の乱、東北の清王朝の勃興、そして明王朝が北京で瓦解してしまった様を、彼らは洪承疇から逐次に情報を得ていたのではないか。これは僕の想像です。
鄭家軍の後ろ盾でパートナーでもある黄家が、清王朝の征南軍のトップを伴って説得にあたる。そして、自らはあくまでも商売をするために政権の中で指導的な立場にいたいということであれば、これは清朝の説得に応じない方が不自然です。

鄭芝龍の誤算

このようにして、鄭芝龍は南明の将軍として清朝と戦うことを放棄して、清の軍隊が福建に入ってくるのを静観してしまいます。しかし、ここでいくつかの誤算が起こってしまう。
それは、息子である鄭成功が、清朝に寝返るのを良しとしなかったことです。そしてそこから玉突き状に誤算が連鎖してしまい、鄭芝龍は清朝の虜囚として北京に送られてしまいます。










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