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【明清交代人物録】鄭芝龍(その五)

地政学的環境

地政学的に、日本列島は中国からつかず離れずという微妙な位置にあります。例えば中国と陸続きである韓国やベトナムなどは、何度も中国からの戦争を仕掛けられており、国土を蹂躙され、国王を人質に取られるなどという憂目に遭っています。井上靖の風濤という小説では、モンゴルにより蹂躙される高句麗の惨状を描いています。

日本は過去何度か中国による軍事的脅威を受けていますが、それは海という障壁のために食い止められています。逆に日本の軍隊が対馬海峡を渡り朝鮮半島に渡ることの方が多いくらいです。

このように、日本では中国による軍事侵攻という危機をあまり感じず、中国に対してその心配をしなくて済むわけです。韓国やベトナムが中国を怒らせないように細心の注意を払って、対中関係を考えないといけないのに対し、日本はある程度のフリーハンドを持っています。仮に中国を怒らせたとしても、それが軍事的な危険にまではエスカレートしないという地政学的条件のもとに日本はあります。

中国からの文化の輸入

一方で中国は文化的先進国であり、経済的にも発展しており、中国の文物は日本人にとっては常に憧れの的でした。そのため、如何にして中国の文物を手に入れるかは、一般的なニーズとしてあり、時には為政者の重要政策ともなります。

例えば、宋銭、絹織物、陶器、書籍などという物品を中国から輸入しようと考えますし、ソフトウェアとしての宗教、漢字、法制度の仕組み、建築技術なども中国から学ぶ訳です。

この様な文物、文化の輸入は常に大陸から海を渡ってくるわけで、この交易ルートがどの様な状態に置かれているのかを時系列的に眺めています。この背景が分かっていると、鄭芝竜が東シナ海の覇者となった理由がよく分かるように思います。

遣隋使と遣唐使

はるか昔、日本では飛鳥時代から平安時代にかけては国の正式な施設として遣隋使とその後は遣唐使が派遣されています。この時代は日本の王朝が大陸の政治制度として律令制を学び、一方でで仏教文化も取り入れるという、積極的な受容の時期であったと考えられます。

しかし、遣唐使は唐の滅亡と共に廃止されます。これは中国が多くの小国が乱立する混乱期に入ったためです。それと共に平安時代の日本文化が花開くことになります。

鎌倉時代前期、宋の時代

中国で統一王朝宋が成立するのが960年、日本では平安時代の後半です。しかし、宋との交易が重視されるのは平家の時代になってからのようです。平清盛は西国の政権で対外交易を非常に重んじたという風に評価されています。
そしてこの時代は鎌倉幕府の成立という形で幕を閉じます。源氏政権は日本では東国に根拠地をもち、京都の天皇家とさえ距離をとった政策をとっています。中国との交易という関心は薄れてしまったと思われます。

鎌倉時代後期、元の時代

中国では宋がモンゴルに倒され元王朝が成立する時代、日中関係は元による対日戦争というモードに入ってしまいます。このため、交易関係も基本的に閉じられてしまいます。

室町時代の複雑な日中関係

室町幕府の成立は1338年、明王朝の成立は1368年とほぼ同時期になります。この時代の日中関係の推移が明朝末期の鄭芝龍の時代に直接関係してきますので、少し詳しくこの時代のことを見ていきます。
大雑把に言うと、閉じられた公式の交易ルートに代わって、様々な代替ルートが模索され、プレイヤーが変わっていったのだと見ています。

鄭和の大航海

明の時代は海禁政策をとり、日本でいうところの鎖国と同じような状態であったと考えられていますが、明王朝初期はモンゴルの遺産を継いで、対外的には非常に積極的でした。とくに有名なのは鄭和による大航海で、東南アジアはもとより、遠くはアフリカ東海岸まで出向いています。そして、明王朝の公認を求め朝貢国となるよう働きかけています。

遣明船

鄭和の艦隊はもっぱら東南アジア、南アジアを目標に活動しており、日本には来ていません。明へのアプローチは日本側から行われています。足利義満が遣明船を派遣したのは1401年となります。

琉球の活躍

琉球王国の成立は1429年と言われています。この琉球王国の成立と、日中関係の交易というのは非常に密接な関係を持っていたと僕は考えています。琉球でこの交易を担ってきたのは、福建から来た華僑の人達です。この人たちが、明と東南アジア各国や日本との交易を行った。彼らの公文書、明朝への親書など全て漢文で書かれており、彼らはまるでこの交易の全てを司る主体者であるかのようです。
これは、僕は物事の因果関係が、琉球王国が成立したから交易を始めたのではなく、中国福建の側が何らかの理由で自分の土地の外に交易を担うカウンターパートを作る必要があり、そのターゲットとして琉球を選んだ。そのためスタッフも船も、ソフトウェアとハードウェアの一式を琉球に持ち込んだのではないかと考えています。そのように考えた方が、この状況がしっくりきます。
それが何故なのかは推測の域を出ませんが、明の行った朝貢貿易というのが、明からのかなりの持ち出しになっているところから、このような形式を取った方が、明の国から合法的にさまざまな利益を得ることができたのではないでしょうか。外国から来た施設には、明朝の面子から送られた財宝を上回る品々が下賜されたとされています。民間で交易をするよりもその方がメリットがあったのかもしれません。
明の時代の朝貢交易の相手国の順位では常に最上席を朝鮮と琉球が指名されており、このシステムの中で琉球が非常に高い席次を得ていたことが分かります。これは、琉球単独の功績というよりは、福建側のこの交易の仕掛け人、恐らく福州の商人集団の力であったろうと考えています。

寧波の乱

1523年に遣明船の交易が中止されるという事件が起きています。これは堺を拠点とした細川氏と山口を拠点とした大内氏がこの交易の利権を巡って明朝のお膝元である寧波で争い事を起こしてしまい、結果として日明交易が閉ざされてしまう結果となってしまいました。
この事件の後、日中間の交易ルートが滞ってしまい、ひいてはこれが倭寇という事件に拡大していった、そういうきっかけとなったとされる事件です。

倭寇の時代

明の時代の倭寇は後期倭寇とされています。前期の倭寇が朝鮮半島沿岸で行われた活動であったのに対し、後期倭寇は専ら東シナ海を舞台とし、中国福建から浙江省を舞台として繰り広げられています。
この現象は名前は倭寇とついているのですが、実際に海賊を働いていたのは9割方中国人であったとされています。彼らの交易が正式なルートを閉ざされ私貿易的な形を取らざるを得なくなり、そのために武装船団という形を取らざるを得なかったのではないかと考えています。
彼らが基本的に交易をする商人であったというのは、後に民間の交易を政府が許可すると、パタっと倭寇の活動が止んでしまったことからも裏付けられます。倭寇というのは止むに止まれず行われた武装した私貿易集団だったと考えられます。

王直の活躍

平戸で活躍した王直は、倭寇の時代に現れた日明貿易を担う交易商人です。出身は安徽省と言われ、国内向けの商売よりも、外国向けの違法私貿易の道を選んで、日本までやってきています。彼の活躍は後の鄭芝竜のモデルとなったのではないかと思っています。平戸松浦氏の後援を受け、日明貿易の一大勢力を作り上げます。
僕が彼のことを不穏に思っているのは、彼が徽王と名乗ったという記載があることです。中国史において王と名乗ることは、王朝から認められていなければ、それは私称となってしまいます。ということは、明朝から離れた独立勢力となることを目指したのではないか。そんな危ない呼称ではないかと考えています。
しかし王直は明王朝の元に降った後、殺されてしまうという憂き目にあいます。この時点では明朝内部で、このような勢力に対する強い反対があったのでしょう。

ポルトガルによる間接貿易

中国の物品を日本に持ってくるという交易ルートに、ヨーロッパのプレイヤーも加わっています。マカオを交易拠点として使うことを許されたポルトガル船団です。戦国末期から江戸時代初期にかけて、ポルトガルによるこの交易は日本史にさまざまな影響を及ぼしています。鉄砲の伝来、キリスト教の伝来、朱印船交易、イエズス会の本部となりこの組織の運営を経済面から支えるという機能も果たしています。
これらの歴史的事実の背景として、日中間の直接的交易が行われていなかったことが大前提なのだろうと考えられます。もし、直接的な交易が行われていたら、浙江や福建から商品を直接に日本に持ち込めば良いわけです。それができなかったために、商品は遥か広東省の彼方マカオに運ばれそれが日本、鹿児島や長崎に持ち込まれる、そのような交易ルートを取ることになります。

月港での開港

1567年、明朝は海禁政策を一部解禁します。これは倭寇の跋扈など東シナ海の治安の問題が大きいのは、海上交易を生活の糧としている福建省において、海禁政策というのが不合理であるということを中央が地方政権に説得されて了承した。それがために交易を一部許された。そのようなことであると理解しています。
しかしこの時開かれた港は、福建漳州にある月港。当時の地方政府のどのような動きと中央の思惑があったのかは定かではありませんが、この月港という立地が中央からの威令が最も届きにくい、遠い場所であったというのがその理由かもしれません。福建で最も中央に近い街は福州、広東においては広州です。海沿いの地図を眺めると、この福建と広東の省境にある土地が、最も中央から遠い位置に当たります。月港はそのような土地の一つです。
しかも、この月港の交易は福建対マニラに限られていました。まだ部分的自由化という状態です。

オランダとスペインの台頭

ポルトガルの行っている日明代理貿易が大きな利益を得ていることに目をつけて、オランダがこれを奪取しようとしてきたことは既に別のところで書きました。
スペインはアメリカ大陸に中国の物産を持ち込むことを画策して、中国の門戸を開こうとします。スペインはアメリカ大陸において強圧的な態度で植民地化を進めていることから、中国や日本に対しても武力に訴えるという方策を取ろうとしますが、それはいずれも失敗しています。
この両国のポルトガルにとって代わろうという試みはいずれも失敗してしまいます。そしてこの両国は台湾の地で主導権争いをすることになります。

日明交易の変遷

このように、日本と明朝の間の交易を担おうというプレイヤーは、明朝成立時から非常にたくさん現れています。このことは、日明関係が非常に不安定なこと、正式な交易ルートが閉じられてしまったために、諸々工夫をしてこの交易の利を得ようとするグループが数多く存在していたことを示しています。
それが、ある時は遣明船という正式な使節、倭寇という武装船団となったり、琉球やポルトガルという第三者を介した交易となったりするわけです。
鄭芝龍の海上帝国は、この日明貿易の利益を得るというテーマに対し、最も大きな規模で成功した事例であると僕は考えています。


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