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【台湾建築雑感】台湾建築師の歴史(その一)

2022年7月に、台湾博物館で「誰是建築師? 臺博館辦展回顧二戰後臺灣現代建築師制度的演變」(建築師とは何者?第二次大戦後の現代建築師制度の変遷)と題された展覧会がありました。普段の業務として、台湾の建築師との付き合いがとても多いので、一体どんなことが紹介されているのだろうと興味が湧き見学に行ってきました。

この展示を見たところ、台湾の建築師の業務というのは日本と比べるととても歴史が浅く、時代の変化に伴って変わってきていることが分かりました。日本の建築士の業務が明治維新後のお雇い外国人による教育と実際の設計の歴史を考えると、100年を超える歴史を持っていることと比べると、台湾では、日本統治時代の建築教育が一度断絶し、その後改めて中華民国独自の建築師の教育が始まっています。そう考えると、約半分の歴史しかありません。台湾における建築設計業務を考える際に、この様な歴史的経緯を頭に入れておき、台湾の建築師の仕事は今もって発展途上にある、ステップアップをしている最中であると考えると、多くのことが腑に落ちる様に思います。

以下は、この展示で書いてあった内容を訳出し、それに解説を加えていきます。

2-1 時代の断裂

「1945年、これは時代の画期となる重要な年です。この年に台湾では政権が変わり、共通の言語が変わり、社会はいったん振り出しに戻ってしまいました。建築専門に関わる法律と学制も、同様にこの年に大幅な変革を余儀なくされています。
台湾が植民地だったときには、台湾での諸々の政策は支配する側の国の利益を優先に考えられています。台湾人は、統治者が夢を描く中、基礎的な技術面の業務をすることしかできませんでした。建設業務に関していうと、台湾人が唯一担当できる業務は、建築申請に関わる手続きを代行すること、現在でいうところの"代書"(行政書士)だけでした。この様な制限があったため、日本統治時代の台湾では、ごく一部日本に留学する機会のあった人間以外、建築技術者を育てることができませんでした。

一方、十九世紀以来中国は西洋列強の侵略により多くの敗戦を経験し、政治改革に臨まなくてはなりませんでした。1909年に始まった「庚子賠款」により、初めての留学生がアメリカに送られました。このわずか10年の間に、多くの建築専門の技術者が輩出しました。

台湾における「建築師」の概念が現れるのは、第二次世界大戦の後のことになります。国民党政府が台湾に流れ着いて後、この二つの異なった建築制度を統合しなくてはならず、戦後の台湾復興期に、どの様にこれらの専門的人材を登用していくかが、台湾省行政部門の取り組む難題となりました。」

日本の統治時代の終了と、中華民国の進駐によって、建築師の制度と人材が断絶してしまっている。そもそもそれ以前に、台湾に台湾人の建築師が存在していない。ですので、台湾における建築師は、光復後に新しく生まれた人々であると言えます。

2-1 時代の断裂
日本と中華民国の建築の制度が1945年に入れ替わります。

2-2 啓蒙の転換 戦前と戦後の建築教育の転換

「日本時代の台湾では、台湾籍の建築専門業者にそもそも「建築設計」の能力がありませんでした。しかし、建築技術の基礎教育は受けていました。「台北州立台北工業学校」(今の台北科技学建築学科)及び「台南高等工業学校」(今の成功大学建築学科)は、それぞれ、戦前の台湾の初めての建築教育機構と、初めての高等建築教育機構でした。

前者は中等教育を担う学校で、その前身は「民政部学務部附屬工業講習所」です。1917年に土木建築科を設立、その中で土木学科と建築学科を持っていました。これが台湾の現代建築教育の始まりです。ただし建築学科の授業の内容は、多くが土木学科と重複していました。1931年「台南高等工業学校」が設立され、1944年に建築学科が設立されました。ここでようやく台湾に「高等建築教育」が実現しました。

この2つの学校の背景に一人の建築学者が存在しています。千々岩助太郎、この人物は「台湾高砂族建築」の研究者として有名で、臺北工業学校の先生をしており、台南高等工業学校の創設にも関わっています。戦後の初期台湾では続けて教鞭を取っており、台湾の建築教育の安定に大きな功績を残しています。」

台湾の建築教育では、台湾大学よりも成功大学の方がレベルが高いと言われ、台北科技大学は元々5年制の専門大学ですがこちらも評価が高いです。そのどちらも、日本統治時代にそのルーツがあるわけですね。

2-2 啓蒙の転換
光復直後の時代は、台湾の建築制度は混乱していたのでしょう。

2-3 時代の衝突 戦後の建築制度の再編

「政治体制の再構築というのは、多方面に渡る政治勢力のぶつかり合いと解決手段の模索を伴い、揺れ動く行動により前進するものです。さらに言えば日本政府にしろ中華民国政府にしろ、「建築師」という考え方そのものがヨーロッパ由来のものです。時代の移り変わる中で、建築師は政治的課題そのものを引き継ぐと同時に、その担うべき専門業務についての理解も異なっていました。

中華民国政府が1938年に定めた〈建築法〉第四条では、「建物の設計をする建築師は、法によって登記された建築学科或いは土木学科の技師、或いは副技師でなくてはならない。」とあります。しかし、戦後の一定の時期、台湾にいる建築技術者は多くが大学を卒業しておらず、また政権交代の世相の中、日本時代の仕事の業績を示すことができずにいました。多くの台湾人は建築業務に携わることができず、ごく少数の日本に留学して建築を学んだ人材だけが資格を持つことができました。

制度と現実の間の相違により、社会建設の業務に対し建築技術者が不足していました。中華民国政府は、一方で大陸から連れてきた建築師に設計をさせ、一方で台湾人の技術者に「技師」と「副技師」の資格を与えて仕事に従事させました。

様々な制度上の制限と不安定な政局の中、省籍による対立と、公務員に対する給与未払い事件が多発し、台湾人はこの「建築師」の業務に関わろうとはしませんでした。そして、人脈があり、ある程度の利潤が見込まれる民間の営造業界に入ることを好みました。この様に大陸籍の建築師と台湾人の建築技術者は、その発展の軌跡は大きく異なりました。」

外省人と台湾人の建築の業務に関わる様子の違いが、光復当初の時代は明らかだったわけですね。台湾人は民間のビジネスにというのは、一般的な商売で聞いたことはありましたが、建築設計というフィールドでも同じだったということです。

2-3 時代の衝突事故
新しい時代の始まり

翻訳を始めたところ、すぐに2000字を超えてしまったので、この記事の紹介も複数に分けることにします。


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