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【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(そのニ)

コイエットは、1947年から1948年にかけて一度目の長崎オランダ商館勤務につきました。この初めての日本での業務は彼にとっては非常に辛く、苦い経験であったように思われます。
Wikipediaでのフレデリック・コイエットの記事はこの時代から始まっていますね。


初めての江戸参府

長崎オランダ商館の前任者は、ウィレム・フルステーヘンでした。彼の任期の間に江戸幕府との3つの懸案事項があったということです。

一つは、更に前任のヤン・エルセラックが商館長の時に、オランダの救命ボートが幕府の禁令を破って長崎出島以外の土地に上陸してしまったことです。これは船が遭難したため、飲み水を得るための已むを得ない事情でしたが、江戸幕府としては宣教師の上陸を厳しく取り締まっているため、同じようにこのオランダ人たちを捕縛しました。
最終的に幕府の役人は彼らをポルトガル人とは異なるとして釈放をすることになります。江戸幕府としてはこれはオランダ人に与えた特別の配慮であると考えていましたが、オランダ側から謝意を示すようなことは行われませんでした。幕府の役人は直接オランダ側に、この将軍の恩恵に対し贈り物を準備し謝意を示すようにと要望していましたが、この段階ではオランダ側はこれに対し何ら対応をしていませんでした。

次に、ヨーロッパの政治状況の変化があります。オランダとスペインは80年間の独立戦争を終結させ、正常な国家間の関係に戻りました。江戸幕府はこの情報を得ており、オランダとポルトガルの間も協力関係があるのではないかと疑い出したのです。

三つ目は、ポルトガルの正式施設が日本に送られた際、江戸幕府はこの施設を追い返したのですが、この船にオランダ人の航海士が乗船していたことです。オランダがポルトガルに協力をしているのではないかという大きな疑念を招くことになりました。

前任のフルステーヘンはこれらの課題を残したまま、バタヴィアに戻ることになり、コイエットはこれを引き継ぎました。

コイエットは着任してから恒例の江戸の将軍への表敬訪問を行うことになります。しかし、江戸に到着してからいくら待っても将軍との面会は許されませんでした。長崎オランダ商館の代表という肩書きでは、これらの問題を解決するための交渉には不十分と,考えられたのでしょう。更に高位の人間でないと役不足だったのだと思われます。実際,この時のコイエットの年齢を考えると30歳そこそこ、現代の会社で言うと、課長クラスの人間が来て、大企業の代表取締役との面会を申し入れたが、すげなく追い返された。キチンと解決の方法を協議してから、然るべき人物に来させろと担当窓口から伝えられた。そんな感じでしょう。

キリスト教徒迫害の嵐

1647年から1648年にかけては既に鎖国制度が施行され、キリスト教徒に対する締めつけが厳しくなっていました。コイエットの記した日記には、江戸幕府によるキリスト教徒への残虐な仕打ちに対する反感、そしてその様な江戸幕府に対してひたすら恭順の意を示し、へりくだっている自らの行動に対して、東インド会社本部に対しての反対意見などが記されています。自尊心のあるヨーロッパの知識人としては、耐えられない境遇であったのでしょう。

しかし、この時代のオランダ東インド会社としては、日本と中国の間の貿易から得られる利益が、会社全体の中で大きな比率を占めているため、江戸幕府に対して恭順の意を示す方針は変わりませんでした。軍事的に、東インド会社の武力では江戸幕府に太刀打ちできないので仕方がありません。

このヨーロッパ人とアジア人の力関係が逆転するのは、産業革命が起こりイギリスが世界の覇権国家となる19世紀まで待つことになります。そして、アヘン戦争によりその力の違いを見せつけられた日本が、明治維新に邁進することになります。

何もなし得なかった一年間

この様に、この年のコイエットは将軍への面会も許されず、何ら成果を上げることなく長崎に引き上げることになります。そして、出来ることと言えば、将軍に対しての謝意を示す使節を送るよう、バタヴィアの東インド会社本部に対して要請することぐらいでした。この時代の船は帆船ですので、南北に移動するには季節風の制限があります。連絡を送って、先方から返信が届くのには時間がかかります。バタヴィアの新たな施設は次の任期の商館長の時代なってようやく来ることになります。コイエットはただただ、長崎出島の中で悶々とした日々を過ごすのみでした。

コイエットは、恐らくフランソワ・カロンから、日本で待ち受けているこれらのことについてのブリーフィングを受けていたことでしょう。カロンはタイオワン事件を解決するために4年の歳月をかけています。目的はオランダと日本の間の貿易を絶やさないこと。コイエットはこの最終目的については楽観視していたのではないでしょうか。日本側はオランダとの交易を禁止するつもりはないこと、適切な施設と贈り物を準備し、改めて将軍への拝謁を願い出ればそれはかなえられるであろうこと。これらのことを冷静に判断し、バタヴィアに報告したのでしょう。

1648年9月、コイエットの後任ディヌク・スルークが派遣されてきました。コイエットは彼への業務引継ぎを行い、バタヴィアに戻ることになりました。


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