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【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その五)

1652年4月、コイエットは長崎オランダ商館長として再び任命されます。この時は、すでにタイオワン事件の問題は解決し、江戸幕府とオランダの間は友好的なものになっていました。ですので、彼の今回の在任一年間はとても順調な経過をたどっています。
しかし、同じ時期にタイオワンのオランダ商館は郭懷一の反乱にさらされ、危険を危機一髪で回避しています。コイエットはその状況に焦燥感を募らせながら任期を終えます。


長崎への再赴任

1652年11月3日にコイエットは長崎に赴任します。

到着してから早々の11月11日の長崎商館長日記には、早々に漢人伝えで聞いた鄭成功に対する風聞が記録されています。鄭成功による北伐は1655年に行われていますので、1652年の段階では清朝との交渉を重ねながら戦力を蓄えている時期です。この段階で、すでにコイエットは鄭成功の軍隊が海峡を越えてタイオワンに攻めてくるかもしれないという危機感をもっています。
これはタイオワンでの実務経験をもち、中国人が多く訪れる長崎で業務をしているコイエットならではの情報収集でしょう。彼のアンテナはタイオワンに関する情報を敏感に感じ取っているのだと思います。

1652年11月20日 の日誌には、タイオワン商館を軍事的に補強するための提案が記されています。船を使って長崎から石材をタイオワンに持ち込むというアイデアです。これは、当時の帆船では実現不可能であると彼は気づくわけですが、ここにもコイエットの焦燥感を感じ取れます。

徳川将軍への謁見

1953年1月15日にコイエットは江戸に到着しています。この時の徳川将軍は家綱です。年はわずか12歳。謁見は2月11日になってようやく実現しますが、直接将軍に会うわけでもなく、贈り物をオランダカピタンが幕府届けたという報告を現場で間接的に聞くということで終わっています。形式的な儀礼でしかなかったということですね。とにかく、オランダ商館長としての主要な任務は今回は無事に終わらせて長崎に戻ることができました。

江戸幕府からはこの時もキリスト教を日本国内に入れること、スペイン人ポルトガル人に協力することに関しての警告が発せられています。
一方この時点で、この様な外交的な課題を話し合う言葉はポルトガルであったそうです。幕末に蘭学が時世を動かす大きな力を持つことになりますが、この時点ではオランダ語を扱う日本人はまだ育っていなかったのですね。

長崎での在任後半の記事

6月25日に、あらためて鄭芝龍と国姓爺についての記事が記されています。北京から鄭芝龍が逃げ出し、国姓爺軍に合流、中国の内戦は激化するであろうというニュースです。

7月16日にはタイオワンでの漢人の反乱の記事が記されています。オランダ側により3,000人の反乱軍が鎮圧されたというものです。
8月7日の時点では、この郭懷一の乱についての詳細が記されています。

9月11日にはコイエットの後継者が長崎に到着しています。この人物に対しコイエットは日本という社会についてのブリーフィングを行っています。そしてその2カ月後の11月10日、コイエットはバタヴィアに戻るオランダ船に乗りました。

今回のコイエットの長崎勤務は、大きな問題のない、全体的な流れの中の一幕でしかありませんでした。なすべきことを行えば、無事に一年の任期を終えることができるといった類のものです。
翻って考えると、この時期にオランダはすでに日本での業務を安定的に行うプロトコルを作り上げていたということですね。その仕組みを作ったのは、恐らくフランソワ・カロンです。コイエットの一度目の長崎勤務の時点ではまだそれは完成していなかった。それが、二度目の赴任時では最終的な課題を克服して、軌道に乗っていたということなのでしょう。長崎オランダ商館長は任期が一年でしかなく、このオランダと日本の恒常的な関係をつくるというグランドデザインをできる職ではありません。それを作った人間は一代目のジャックス・スペックスと、フランソワ・カロンでしょう。
この日蘭関係という果実は、日本の幕末時代に大きな文化・外交的な花を咲かせるという結果を生みます。

一方、タイオワンにおいては、郭懷一の農民反乱とは全く別次元の軍事的脅威を、鄭家軍から受けるという運命が待っています。フレデリック・コイエットはこれまでの経過から見ると、自ら進んでこの危地に乗り込んで行ったのでしょう。この問題を副商館長としての経験から正面から検討し対応策を練っています。バタヴィアの商館の中でもコイエットに任せるのが適任と判断されたとしても不思議ではありません。

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