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【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その二)

平戸のオランダ商館というのは、ヨーロッパの最先端の商業活動ノウハウをもっていて、日本に設けられたリエゾンオフィスではありますが、この時点では満足な交易を行えてはいなかったと考えられます。というのは、日本人が欲した商品がほとんど中国のもので、この商品を中国から仕入れるルートが確保できていないからです。
この辺の経緯については、鄭芝龍編の紹介で書いているので詳細は省略します。


厨房係として出発

フランソワ・カロンは1600年の生まれで、1619年平戸オランダ商館に着任しています。この厨房係というのは、何でもやる雑用係という様なもので、この時の年齢19歳を考えても、最年少の下働きをする少年として平戸オランダ商館に配属されたのでしょう。

出身は南オランダ

彼の出身は南オランダ、ブリュッセルです。後にフランス東インド会社の長官となり、その際にフランス人となりますが、この時点ではオランダ人です。なお、この南オランダというのは、後にベルギーとしてオランダから独立する地方です。オランダ東インド会社を支配する主な都市がほぼ北側に偏っており、その地方の出身者が幅をきかせていたと考えると、この南オランダ出身というのは傍系と考えた方が良さそうです。後にフランス東インド会社に移ることを考えても、彼はオランダ東インド会社のメインストリームからは外れていた人材なのだろうと考えています。
また、そもそもこの時点での平戸オランダ商館は交易の実績をほとんど持っておらず、海のものとも山のものとも将来の分からないリエゾンオフィスだったのでしょう。

日本人の妻を娶る

そして、最も格下の雑用係として働き始めたフランソワ・カロンは日本人の奥さんを娶っています。彼が日本を離れる1640年までの間に6人の子供を得ており、20代前半から40歳になるまでを、どっぷりと日本の社会に溶け込んで暮らしていたのだと考えられます。
彼が、この様に若い状態で日本人の社会に溶け込み、言葉をマスターし、日本のことをさまざまに学習していったのは、当時のヨーロッパ人の感覚では稀有なことであったろうと考えています。

この時の商館長ジャックス・スペックスも日本人の奥さんをもらっていますが、商館長としての立場では、それほど日本側の立場に肩入れするわけにもいかなかったでしょう。
それに比べると、最も年下の雑用係としてキャリアをスタートさせていたフランソワ・カロンはジャックス・スペックスと比べるとかなり自由だったはずです。日本側の家族もこの若者を、異国の訳の分からない人物というよりは、日本の言葉を身につけて、日本の文化的なバックボーンも理解してくれる、入婿として歓迎していたのではないでしょうか。
このように、より深いレベルで日本の生活習慣、文化的な違いまでもを理解したフランソワ・カロンは、単なる通訳ではなく、対江戸幕府の交渉の際に、日本側の意図を正確に読み取ることができるようになっていました。そのため、商館長江戸参府の際には、彼が通訳官として同行するようになります。
彼が活躍を始める1620年代後半の時点では、プロテスタント側に立っていた外交顧問ウィリアム・アダムズは既に死去してしまっており、江戸幕府内にはイエズス会等カトリック系の通訳しか残っていなかったと考えられます。そうであったとすれば、オランダが自らの立場を説明するのに、会社内の優秀な通訳に仕事をさせるのは、ごく自然な成り行きです。
そのような経過を経て1626年、フランソワ・カロンは商館助手に抜擢されています。

ピーテル・ノイツ

その翌年1627年、この時代の平戸オランダ商館にとって疫病神のような人物が日本にやってきます。ピーテル・ノイツ。オランダ東インド会社からタイオワン商館長として任命され、江戸幕府に対しての交渉のために派遣されてきました。
この人物はオランダでは哲学を修めており、東インド会社としては、その学歴の高さからでしょう、東アジアに派遣されるなり、いきなりタイオワン商館長に任命されています。
この時点でフランソワ・カロンは日本滞在7年目、現地での商習慣にも通暁し、言葉も自由に操れる状態になっていますが、上司としてやってきたのは、このような人物でした。

江戸参府叶わず

この際のピーテル・ノイツのミッションというのは、タイオワン商館の財政を安定させるために、この地における交易に対する関税の徴収を江戸幕府に認めてもらうというものでした。
東インド会社というのは、徹頭徹尾商人の集団ですので、各地の商館が自ら利益を稼ぎ出す工夫をする様に仕向けるわけです。本来であれば、商売そのものが利益を生む構造になっていれば問題ない訳ですが、この段階のタイオワンと平戸の商館はまだその様な状態になっていません。この交易が軌道に乗るというのはずっと先、鄭芝龍が福建での交易を牛耳り、中国の商品の供給を保証する時まで待たないといけません。それは1635年頃のことになります。
そのため、タイオワン商館は自らの財源確保のために幾つかの方法を考えます。一つは、台湾の土地を使って開墾し商品作物を栽培すること。もう一つが、商売そのものから利益を得るのではなく、タイオワンの地で行われる商売に対して関税をかけて、税金を徴収することになります。

このうち農耕を振興することに関しては、地元の漢人を頭にすることで実行していきます。
しかし、関税をかけることに対しては交易の購買側である日本人から大きなクレームを受けることになります。日本人の立場としては、それまではフリートレードゾーンであったタイオワンの土地で、いきなりオランダ東インド会社から関税を取ると言われても、全く承服できない訳です。
一方、オランダはヨーロッパきっての商業センターとして国を運営しており、その国家運営の基礎としてこの関税のシステムを導入していました。そうであれば、関税の導入によって財政の健全化を図るというのは、当然の手段であり反対される理由はないという認識だったのでしょう。
このオランダの主張を江戸幕府に認めてもらうべく派遣されたというのが、ピーテル・ノイツのミッションでした。一方日本側は長崎代官である末次平蔵の動きで、このオランダの動きを牽制しています。日本側としては、オランダによる関税の徴収などということを江戸幕府に認められては困る訳です。この二者の意見は平行線のままです。

しかし、この訴えをする先が江戸幕府であるというのは、現代的な感覚では少しおかしな気もします。タイオワンの土地が江戸幕府の統治下にあるわけではないと考えると、この訴えを持っていく調停先が江戸幕府というのは不自然です。
このことに関して少し考えたことがあるので書いてみます。それは朱印船貿易の意味についてです。
朱印船貿易に用いられる朱印状というのは、この船が江戸幕府の正式な交易船であり、そのために海賊行為を働くなという要請をするものになります。
では、この時期に東シナ海で海賊を働いていたのは、どの様な船なのでしょうか?プレイヤーはいくつか考えられます。日本船、中国船、ポルトガル船、スペイン船、オランダ船、イギリス船など。東南アジアの国々の船は、この海域で海賊を働くほど優れているとは考えられません。
詳細な検討は省きますが、消去法で考えていくと、この1620年代の東シナ海で最も激しく海賊行為を働いていたのは、オランダ船であり、この配下で協力していた中国船と考えられます。とすれば、朱印状というのは、オランダ船が海賊を働いてきた際に、我々は江戸幕府のお墨付きの船である、控えおろうと示す、水戸黄門の御印籠の様なものであると考えられるわけです。
この様な解釈が正しいとすれば、この時期のタイオワン商館長が江戸幕府にお伺いを立てるというのは、彼らの認識では、この土地と海域は江戸幕府の勢力範囲である。平戸や長崎と同じ様な位置付けであったのかもしれません。

この時のピーテル・ノイツの江戸幕府参内は、結局のところ実現しませんでした。その原因が、ピーテル・ノイツの個人的資質にあったのか、それはこの段階では不明です。しかし、ピーテル・ノイツのファーストミッションは失敗してしまいました。タイオワン商館における関税の徴収の件は、江戸幕府に認めてはもらえませんでした。
そして、このことは大きな禍根を残し、更に大きな事件を引き起こします。そして、フランソワ・カロンはこの問題を解決するために奔走することになります。

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