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【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その四)

1652年、オランダ東インド会社タイオワン商館における最大の漢民族反乱事件、郭懷一の乱がおこります。コイエットはこの時期長崎にいたと思われます。しかし、この事件はコイエットの運命に大きな影を落としていますので、その経過を説明しておきます。


漢人たちの反乱

17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ人の植民政府による華僑に対する弾圧事件は、継続的に起こっています。フィリピン、バタヴィア、そしてタイオワンにおいて多数発生してします。ですので、これはヨーロッパの植民政権と漢民族の間に普遍的に起こる事件であり、構造的な要因をはらんでいるのだと考えています。

考えようによっては鄭成功がオランダ人をタイオワンから追い払ったというのは、これら数あるヨーロッパ人と漢民族の衝突の中で、唯一漢民族側の勝利に帰した事件であるとも言えると思います。

フィリピンにおける反乱

マニラにおける漢民族に対する弾圧事件は実に4回も起こっています。マニラではスペイン人の絶対数が少なく、それに比して漢民族の移民、商売人の数が圧倒的に多くなると、スペイン人達の心配が起こり、それが何らかのきっかけで漢人たちの弾圧,殺戮と発展してしまいます。そして、その殺戮の後に漢人たちがいなくなるとマニラにおける交易が成り立たなくなってしまい、あらためて漢人を呼び寄せることになります。このサイクルが実に160年にわたって繰り返されます。

1603年:李旦が日本に来るきっかけとなった事件です。明朝の宦官高采が閩南人華僑から、フィリピンで銀の鉱山が発見されたと報告を受け、これを明朝自ら探査をしようと人間をフィリピンに派遣しています。この行動がスペインの植民地政府を恐れさせ、華僑の反乱を危惧して虐殺事件に発展してしまいます。23,000人もの華僑が殺されたと記録されています。

1609年:この時は華僑が重税に対して反乱を起こし、これを鎮圧するために弾圧をしています。この時も20,000人余りの華僑が殺されています。

1639年:この時の虐殺も重税に対する華僑の反乱が原因です。

1662年:この時の事件は鄭成功が関連しています。この年鄭成功の軍隊はオランダ人を追い落とし、台湾に根拠地を移しています。その勢いをかってかどうか、鄭成功はマニラのスペイン植民政府に対して、華僑の弾圧を辞めさせるための軍隊を送るという親書を渡してしまいます。この行為は逆にスペイン政府の態度を硬化させ、華僑に対する弾圧に発展してしまいます。
しかし、鄭成功はこの直後病死してしまい、この計画は立ち消えになります

1762年:スペインとイギリスの間の戦争勃発に乗じて、華僑のスペイン政府に対する反乱がおこります。これに対してスペインは弾圧を行い6,000人の華僑が殺されています。

バタヴィアにおける反乱

オランダ東インド会社の本拠地であるバタヴィアでも、華僑に対する弾圧は起こっています。
1740年、経済不安に陥った華僑がオランダ兵50名を殺害するという事件が起こります。オランダ殖民政府はこれに対する報復として華僑を虐殺します。この時は10,000名の華僑が死んでいます。

郭懷一事件

タイオワンで起こったこの事件もオランダ殖民政府の重税に反感を募らせた漢民族が、政府の転覆を図るという事件です。
郭懷一は漢人による台南の開墾を指導する立場にあったそうです。しかし、この反乱は農民によるものなので、武器はほとんど持っておらず、軍事的な能力は非常に乏しいものでした。

漢人側の装備は貧弱なのに対して、オランダ側は充分な火器を有しており、要塞も持っています。後に鄭成功の軍隊が半年の時間をかけても落とすことができなかったゼーランディア城です。漢人側が人数的に優勢であっても、成功はままならなかったでしょう。
さらにこの反乱は、漢人側からの情報漏洩が起こり、オランダ側が準備しているところに、装備も不十分なまま行動を起こすことになり、結果オランダ側の死傷者がほとんどいないのに対し、漢人側が4,000人もの被害を出すという結果になってしまいます。

事件の顛末は下記のWikiの記事に詳しく説明されています。

人頭税

ここで漢民族側が不満を感じたという人頭税について考えてみます。
他の植民地でも重税に生活が苦しくなった華僑が反乱を起こしています。この税金がなぜ必要だったのかを、オランダ側の視点で考えてみましょう。

タイオワンの植民政府では本来中継貿易の基地として、交易によって収益をあげるのが筋です。しかし、この収入は非常に不安定で、商館を運営し台湾を統治していくには不十分です。それは東アジア海域での貿易が中国の商品に頼っており、その中国側の事情が明朝から清朝に移る戦乱の時代であること、鄭家軍の清朝に対する反抗が継続していることなどから、そもそも商品の供給を十分に得られません。1640年代から1662年の鄭家軍によるタイオワン占領までこの状況はずっと変わっていません。

そのため、利益を追求する営利組織であるオランダ東インド会社は他の手段によって収入を得ることを考えます。それは商品作物の栽培であったり、貿易をする際の関税だったりするわけです。フランソワ・カロン編で述べたタイオワン事件は、この関税の取り立てに対して反対した日本商人が起こしたものです。
一方人頭税というのは、人口一人当たりにかかる税金です。そのため、子供をたくさん産むことを良しとしている漢民族の家庭では、この税金が重くのしかかってくることになり、それに対して不満が募っていきます。そしてそれが爆発するという経過をたどります。

この人頭税というのは、現代でいうところの所得税の原型なのかなと考えています。現在であれば、それぞれの所得に応じて徴収する税金をきめ細かく調整することが可能です。これが、古代から近世に渡る時代では技術的にそんな対応をすることができないので、一人あたりいくらという税金になっている。これは、現代の感覚でいくとかなり乱暴な話でしょう。不公平感が募るのも仕方がありません。

何が問題だったのか?

タイオワンでの植民地政府の経営状況を見ると、収入を得て黒字化させるという命題に対し、タイオワンの商館長がとても苦労していることが分かります。本来貿易という商売をして利益を出すという組織であったオランダ東インド会社は、タイオワンの地を得ることで殖民地を経営することになり、このことがまた出費を重ねることになります。
オランダや後のイギリスが、海洋覇権国家となるにあたり基本的に採った戦略は世界各地の貿易拠点を点として確保することです。そうすることで世界の交易ネットワークを成立させ、商業立国を図るわけです。

その際に植民地を持つことが、商売としては利益を生むことよりも、支出を増やすことになっていたのではないかというのが、この時代のタイオワン商館の歴史を読んで感じることです。これはバタヴィアやマニラの状況をまだ詳しく調べていないので、あくまでタイオワン商館と、後の日本による台湾統治の経済状況を学んで考えていることです。
どうもこれらの植民地は利益を生み出す構造になっていない。そのために年々増大していく植民地経営の費用の捻出を自ら考えださなくてはならない。そのアイデアの一つがこの人頭税という仕組みで、それが徴収される側にとっては大きな負担にならざるを得ないということなのでしょう。

特に漢民族は、子供をたくさん産んで育てることを良しとする文化なのでその影響を受けやすい。それがこの時代の華僑の住む地域で継続に起こる反乱と、それに対する植民地政府の弾圧の理由なのではないかと考えています。

コイエットは、この反乱がおこる直前にバタヴィアに戻り、すぐに改めて長崎に赴任することになります。彼は日本に移ってもこのタイオワンにおける漢民族の反乱にとても関心を払っています。それが、その後彼がタイオワンの行政長官に任命される理由なのでしょう。彼にとってこのタイオワンの反乱事件は他人事ではなかったのです。


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