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記憶の旅日記2 イスタンブール

ドイツに来てすぐKという日本食屋でアルバイトを始めた。ドイツで一番古い寿司屋で、そこではウエイターの仕事をして、魚の名前をドイツ語で覚えた。コロナで去年潰れてしまったが当時はすごく賑わっていて、ものすごく忙しかった。夜11時半ぐらいに終わり、賄いの弁当をタッパーに入れてもらえるのが嬉しかった。

2週間ぐらいしたら日本から新しい社員が入ってきて、ボーズ頭の少年のような男で(実際には僕より6歳上だった)、Sという名前だった。休憩時間に好きな音楽の話をしていたら二人ともスカパンクが好きということで仲良くなり、また話をしていたら僕が持っていた好きなCDに彼が日本にいた頃にやっていたバンドが入っているということを知った。それから僕らは遊ぶようになり、一緒にバンドをしようよ、ということになって2人でのバンドを組んだ。ドラムとベースがいなかったから打ち込みのシンセサイザーやドラムマシーン、ミキサーなどを二人で買った。僕がギターを弾き、Sがトランペットを吹いた。毎週土曜日に会い、1時間ぐらい音楽をやり、上機嫌になり呑みだしてそれからだいたい朝まで呑んだ。

いくつか曲ができ、ライブもやるようになった。友達の展覧会のオープニングでよく演奏した。隣街のケルンでアンダーグラウンドなイベントをオーガナイズしていたピラテリア(海賊)というグループから声をかけてもらい、何度かそこでも音楽をやった。そのうちにイスタンブールでアンダーグラウンドフェスティバルをやるから一緒に来い、というオファーをもらった。会期は3週間ぐらいやっていて、他のメンバーは先に行っていて、僕は1週間ぐらい遅れて一人で飛行機でイスタンブールに行った。11月のイスタンブールは暖かかった。海ぐらいの大きさの湖が街の真ん中にあり、橋に釣り人がたくさんいて、鰯のような魚を釣っていた。毎日夕方ぐらいの時間になると街中に宗教音楽がスピーカーから流れてきた。

フェスティバルの会場はスラム街の真ん中で、歩いていると路上で生活をしている子供達が集まってきて話しかけてきた。会場は広い野球場のようなところだった。毎日誰かが何かのパフォーマンスをして、誰かが全員分のご飯を作って、近くのぼろいアパートで皆が一緒に暮らして寝た。街に行って、床屋が空いていたので言葉が通じないけれど入ったらトリコ風の角刈りになった。その髪型で帰ったらニキータが本当に心配をして、すごくダサいよ、前の方がずっと良かったといってくれた。空と湖が綺麗だった。子供たちはみんな悪ガキで怒ると石を投げてきたがよく遊んだ。

ステージでライブをやった日に、路上の子供達がたくさん見にきてくれた。おそらくこういう音楽を初めて聞いたのだろう。最後まで聞いてくれたのが嬉しかった。

夜になり東欧のどっからからきた3人のパフォーマーがでかいセットを組んでパフォーマンスをはじめた。3人とも防火服をきて、一人がコントローラーのようなボタンを押すと20mぐらいの火柱が大砲みたいな音で立ち上がった。5つぐらいあった砲火口から色々な轟音で火柱が立ち上がり、まるで戦争みたいだった。火柱の熱風が顔に当たり離れていても熱かった。夜空に轟音が響き、街が照らし出され、道が照らし出され、人が照らし出された。ドーン、ドーン。コントローラーを持った奴が調子に乗り狂ったようにボタンを押しまくっていた。ドドドドド。しばらくして消防車とパトカーがきて、パフォーマンスが終わった。

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