見出し画像

教師は無意識に傷つける?

僕は旅行が嫌いだ。一年中全国を飛び回っている僕が言うのも説得力がないかもしれない。

でも、僕はほんとうに旅行が嫌いなのである。旅行の準備が面倒とか、交通機関に乗っているのが面倒とか、人と会うのが面倒とか、そういうよくある理由ではない。その土地その土地に根付いている文化に触れることによって、どうしようもなく文化的インフラをもたない自分と向き合わされる……それがイヤなのである。

結果、僕はセミナーやら講演やらでいろいろな土地に行くけれども、常にとんぼ返りの日程を組む。いかなる観光地であっても、「ついでに少しゆっくりしてくるか」ということがない。せいぜい懇親会の席で、セミナー事務局の方に地元のおいしい魚と地酒を紹介してもらって食す程度。それが僕の全国行脚の実態である。

学生時代、遠野に行ったことがある。僕は柳田国男の「遠野物語」が好きで、学生時代に師事していたのも民俗学の教授で、是非行ってみたいと思って赴いた。語り部の語りを聴き、記念館を見学し、河童淵にたたずみ、町並を眺めながら練り歩いた。その一人旅は、僕が数年間をかけて学んできた「遠野物語」の世界を堪能するまたとない機会……になるはずだった。しかし、一泊、二泊とするうちに、そして遠野の人々と話をするうちに、僕は僕自身が「遠野物語」の世界を理解し得ない人間であることに気づかざるを得なかったのである。遠野の町では、庭を掃いているおばあちゃんや、散歩をするおじいちゃんはもとより、道ばたで遊ぶ幼少の子どもたちでさえ、僕よりも「遠野物語」の世界観を理解しているように見えた。何より、遠野に流れる空気は北海道の空気と明らかに異なっていた。肌にとろりとべたつく、重い空気……。夏の暑さばかりがその空気をつくるのではない。それは町全体を包み込む「文化」が創り出す空気であることに気がついた。そして、自分たち独自の文化をもたぬ北海道民には、その空気を決して理解できないであろうことも確かな存在感をもって想像されたのだった。

二十代の頃、僕は数々の歌枕の地、淡路の浄瑠璃、「二十四の瞳」の小豆島と、自らの憧れの地を旅した。旅費を貯めて一週間以上滞在する、気ままに歩き回るといった旅程を常としていた。しかし、そのどれもが遠野で味わったと同様の敗北感とともに帰路に就くことになった。「文化」もまた、自分ではどうすることもできないインフラなのだった。以来、僕の旅行嫌いが始まったのである。セミナーで伺った地では、よく地元の事務局の先生方が観光案内をしてくれようとするのだが、僕はそれを丁重にお断りすることにしている。事務局の先生方が無意識に纏っている「文化」のにおいに、僕はむせ返りそうになることさえ少なくない。そして自らが纏う「文化」にまったく無意識である事務局の先生方の心象とはどんなものかと思いを馳せるのである。僕が「文化」という言葉を使うとき、実はこういう意味が込められている。この意味で、僕は生まれながらの東京都民という先生と話をしていて、彼らが無意識にもつ都市型の奢りに眉をひそめることが少なくないし、自分には理解できるわけがないと思って同和教育に関する発言は絶対にしないと決めている。

公立学校はその地域と不可分の関係にある。公立学校はある意味でその地域の文化を体現している。自らの劣等感を喚起する学校に勤めている場合ならまだいい。教師にとってもっと大きな問題になるのは、子どもたちが一身に浴びている文化、保護者の階層に教職階層が優越している場合である。要するに、教師が勤務校の地域に住む人々よりも豊かである場合である。このとき、教師は子どもたちが無意識に抱えている不安や、保護者たちが無意識にこだわっている事象にまったく気づくことができなくなる。もちろん、努力することで理解することはできる。教師はその努力を怠るべきではないし、そうした努力を重ねる教師は尊敬に値もするだろう。しかし大切なのは、どんなに観察し、どんなに思考したとしても気づけない領域というものがある、という謙虚な感覚を持つことができるか否かだ。子どもたちも保護者たちも、教師がもつ無意識の奢りに最も傷つく。僕らは教職にある者として、そうした自らの奢りに敏感でなくてはならない。自分でも気づかない領域が必ずあるということを謙虚に受け止めなくてはならない。

昨今、「ヒドゥン・カリキュラム」概念が再び流行し始めている。発問や指示や説明といった指導言に悪しきヒドゥン・カリキュラムを指摘したり、教師のつくる学級や授業のシステムに悪しきヒドゥン・カリキュラムを見出したりすることはむしろ易しい。真に危険なヒドゥン・カリキュラムは教師が意識せずに発する感動詞や助詞や助動詞、教師がどうしようもなく身につけている所作にこそあるのだと肝に銘ずる必要がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?