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詳細な読解

かつて、国語科の物語・小説の授業が、現在の読み物資料道徳の授業のように行われていた時代がありました。登場人物の言動からその心情を読み取り、なぜそんなことをしたのか、なぜそんな台詞を言ってしまったのか、その言動にはどんな意味があるのかと、子どもたち同士で議論しながら授業が進んでいきました。「主題」という名の「徳目」も、国語の授業で普通に取り上げられていました。

しかも、道徳は原則として単発一時間で授業が終わりますが、国語科では教材を場面に分け、それぞれの場面を一~二時間かけて授業することを常としていました。もちろん漢字や語句の学習をしたり、感想文を書いたり続編を創作したりといった時間もありましたから、「ごんぎつね」や「大造じいさんとガン」を十五時間から二十時間かけて授業するなんていうことが普通に見られました。

そんな状況を受けて、国語科の授業において「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちだった指導の在り方を改め」るという方針が文部科学省から提示されたのは一九九八年のことです。国語科という教科が「言語の教育」として先鋭化されたのです。それを機に、「ごんぎつね」や「大造じいさんとガン」は六時間程度、多くでも八時間程度で授業されるようになりました。読者の皆さんの多くは、そうした国語の授業を受けてきた世代にあたるはずです。

それから四半世紀が経って、物語・小説を読めない大人が増えました。物語・小説が世の中から消え、一部の人だけに必要とされる趣味的な芸術となってしまうのならそれでも構わないのですが、いまだに一般に人々は物語・小説を必要とし、国語の教科書にも物語・小説が堂々と掲載される時代が続いています。結果、物語・小説を読めない教師が物語・小説を授業しなければならないというアンバランスが現象することと相成りました。若い教師が必要以上に国語の授業に苦労することになってしまったのです。

国語科が「文学的な文章の詳細な読解に偏」っていた時代には、「国語科授業の大家」と呼ばれる先生が各学校に一人二人いて、その先生に訊けば喜んで授業の仕方を教えてくれました。本屋に行けば教材別に発問・指示まで事細かに掲載され、それぞれの指導言の意味・意義まで解説されている書籍がたくさんありました。指導書だって学習活動よりも教材解釈に紙面が大きく割かれていました。そして何より、校内研究会で国語科の指導案が検討されることが頻繁にあって、そうした機会に参加しているうちに若手教師もだんだん成長していくという意図せぬシステムが敷かれていました。いまはこれらのすべてが姿を消してしまいました。

文学的文章教材の読解・鑑賞は、説明的文章教材のそれと比べて「経験がモノを言う」傾向があります。物語・小説をほとんど読んだことがないという教師よりも、本好きの高学年の子どもの方が読解力・鑑賞力に優れているということが頻繁に起こります。また、もしかしたら、保護者が本好きで幼少の頃から読み聞かせをしてもらえたという環境で育った小学校一年生が、直観的に教師の読解・鑑賞を超えてしまうというようなことさえあるかもしれません。教師はそのことに気づかないまま、そうした子どもたちが自分の授業から心が離れてしまうのを指をくわえて見ているだけ……ということになりかねません。考えれば考えるほど、怖ろしいことです。

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