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伝統と「未来の消費文化」をメディアを通して伝えたいと思った背景

ClubhouseというSNSが急速に賑わった2021年2月。「伝統」というタイトルが含まれる部屋を立ち上げては、さまざまな人たちと議論をしていた。

そのとき、ひとりの女性が「伝統だからいいモノだとあなたは言うのですか?」と聞いてきた。私は何も答えられなかった。

厳密には「議論を公の場で立てることができなかった」というのが正解かもしれない。自分なりの答えはもっていたものの、まだ人がいる場で話すには未成熟だと感じたのだ。

今日これから書く内容は、私が編集長を務める『Solena(ソレナ)』というメディアで記事を書いてくれているライターに向けてのもの、ということを先に述べておこう。目的を見失いそうだ。

私は「伝統から未来の消費文化を考える」というコンセプトでメディア運営をしているのだが、ライター陣はそれをまだ上手に取材先の方々に説明できないというのでnoteに記しておくことにした。

そしてこれは「伝統だからいいモノなんですか?」の私の答えとも直接つながる話だと思う。少し遠回りないくつかのショートストーリーを交えながら、このひと時を共有できたら幸いだ。

伝統は応援するもの?支援するもの?

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大手企業やインフルエンサーと呼ばれる人たちがもし「伝統を支援します」と言い出したら、あなたはどのように感じるでしょうか。

正直なところ「伝統」というフレーズには、希少性や限定性のニュアンスが少なからず……いや、多分にあります。そこを利用したコマーシャル的打算が最近はブームのように渦巻いてもいます。

それらを加味した上で、現場の職人さんたちに話を聞いてみると「嬉しい」と感じる人が半分「なんて迷惑な話だ…」と感じる人が半分、という印象を受けています。そしてこの話を聞いたとき、ふと脳裏に浮かんだのは、とあるビジネスセミナーで教わった一言でした。

認知が目的の場合、どんなカタチであれ、広がることを良しと考えます

極端な話、炎上マーケティングであろうと何だろうと、広まることが正義なのが「認知を目的とする」という意味で説明していました。

1.認知
2.興味・関心
3.購入
4.リピート
5.シェア(口コミ)

という大まかな消費行動があるなかで、認知だけを目的とするということは、それ以下のプロセスの責任を負わないということにもなります。

……話を戻しましょう。

「応援する」の言葉の裏には「私にできる範囲で手伝いますよ」というニュアンスがきっと存在しているのだと思います。だから仮に現場の人たちに思うような成果をもたらさなかったとしても、それは許容されてしまう。

「マスメディアには取材されたくない」と話す、頑固なラーメン屋の店主の顔が浮かびませんか。誤解されるような伝わり方、届いてほしくない層にはお店のことを知られたくなもない……という空気感です。

伝統を応援します」ならまだいいのだけど、きっと多くの人たちはこれを「支援」と受け取るんじゃないかと思っています。つまり結果までちゃんと責任をもってくださいねと、暗にほのめかしているのではということ。

そう考えると「支援します」という言葉を使いながらも「認知だけを目的」とする「応援」は、大手企業やインフルエンサーにとってリスクでしかない気がしています。

それは同時に「小規模なメディアであっても同じこと」だと考えています。

『Soléna(ソレナ)』というメディアは、2021年1月4日にリリースされました。ここに至るまで、何度も頭をよぎった言葉があります。

伝統のメディアをやる? それって安易じゃないかな……

安易、という言葉が表すのは、その裏にあるリスクをちゃんと見れていないんじゃないかという恐怖です。ほぼ直感的ではありましたが、この「応援と支援」の区別をするようになってからは、その重大さをはっきりと自覚できるようになってきました。

そう考えたときに「伝統」を扱うメディアの立ち位置は、応援や支援という枠組みのなかで本当にいいのだろうかと思うようになりました。

そこで浮かんだのが「考えを促進させるメディア」という在り方です。古くはそれを「ジャーナリズム」と言ったかもしれません。

戦場を伝えるジャーナリストは、現場で起きていることをただ伝えることに信念を置いているように感じます。読み手、聞き手の人たちが目の前にそれを感じられるように届ける。ジャーナリズムの本質というか。

きっと届けたい想いや、世界にこうなってほしいという願いはあるものの、そこに自らのフィルターを介さず、ただ届けることをする。もしメディアをするのであれば、そういう立ち位置でありたいと思うようになりました。

主張はないけれど、仮説はあるという考え方

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『Soléna(ソレナ)』というWebメディアに取材される人は、じゃあ一体、どんな観点・視点から話をしたらいいのだろう。

「ジャーナリズム」や「考えを促進するメディア」と言われてもわけがわからないし「伝統から未来の消費文化を考える」と説明されても、答えようがないかもしれない。

だから少なくとも、メディアとしての主張はなくても「仮説」を語る必要性はあるだろうなと考えるようになりました。

主張というのはメディアが自分たちの正義を持っていて、取材の対象者に「メディアの主張」に合わせて話をしてもらうスタイルです。きっと多くのWebメディアはそうしていると思います。

「私たちは自然保護をすべきと考えます。ですのであなたにもぜひその観点で取材に応じてほしいのです」

という具合に。これを「企業主体の経済的な営み」だと私は捉えています。一方で仮説というのは「私たちはこう考えるのですが、本当のところの結論は読者に委ねたいのです。だからあなたには自由にご自身の主張を語っていただきたい」という姿勢になります。

主張を持たないということは、ある種の責任逃れのような側面もあるかもしれません。でもそれは本意ではありません。ただ「作り手」の話す言葉と、「伝え手」の話す言葉が交わる場をつくり、そこから読者にこれからの消費を考えるキッカケ、促進の場にしたいなという願いがあるだけなんです。「企業主体の道徳的な営み」とでも言えましょうか……。

話は長くなりましたが、では『Soléna(ソレナ)』としてどんな仮説を持っているのかというと回答は次のとおりです。

「大量生産・消費の社会が “いったん落ち着き”、次の消費文化が芽生えている。そこに対して伝統が大きな役割を担うのではと考えます。つまりモノへの愛着や次世代に想いをつなぎたいという根源的な欲求に基づく消費です」

時代はSDGsやエシカル、CSV経営という文脈が大きなトレンドとして流れているように感じます。私はそこに「伝統」がキーワードとして登場するのではと考えているんです。

それが正解だとは主張できないし、予感があるというだけ。だからここでは「仮説」という言葉を使い「作り手」や「伝え手」の方々がその仮説に対してどのような意見を持っているのかを聞いてみたい、と思ったのです。

日本国内においては経済も成熟し、人がモノを買う際には「情緒」が大きな影響力を持ち始めているように感じます。つまり、自分なりに「意味づけ」ができるような消費の仕方を求めている。自分の生き方という幾重にも連なる階層のなかに組み込める「ナラティブなストーリー」を求めているんじゃないだろうか、ということです。

「モノ」はただの道具ではなく、自分の人生のなかに組み込まれた、大切なピースなんじゃないかという発想です。それは作家の顔が見える「手仕事」によるモノかもしれないし、何百年と受け継がれてきた「伝統」が生み出したモノかもしれない。

もし「議論を立てたいから、どちらかの立場で主張してほしい」と言われたのであれば、私たちは「伝統のモノは社会に必要である」という意見をもってディスカッションに臨むことになると思います。

伝統のモノだから、買ったほうがいい?

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正直なところ、極論だなあ……とは思います。

でも仮にこれが議論の場だったら、どちらかの立場を取る必要があります。だとすれば私たちは「伝統のモノだから買ったほういい」と主張することにはなると思うので、あえてその視点でここから先の文章を書いてみます。

(本当に極論ですよ、という前提で)

きっといまこの瞬間に、伝統のモノが消えたところで一般消費者に直接何か大きな影響があるかというと、そうではないと思います。工業製品でもいいモノは十分に溢れているし、そこから愛着を見出すことだってできます。

100円均一で購入したマグカップであっても、大好きな両親から贈り物であれば長く愛着をもって使う可能性は少なくないはずです。

伝統とは関係なくても、大好きなアーティストが自分のために作ってくれた作品であれば、きっと世代をつないで受け継ぐ家宝にしてほしいと願う人だって出てくるでしょう。

そこへきて「伝統」とは何を意味すると思いますか?

こんなときにRPGの話を出すのもなんだけれど、ドラゴンクエストという私の大好きなゲームの話があります。そこでは「ロトの剣(勇者のつるぎ)」が存在していて、一見すると最強の武器のように感じる。だけど意外とそうではなくて、そこそこの品だったりする。

唯一言えるのは、シリーズを通して登場する「伝統」ある武器だといこと。

全シリーズの物語(ストーリー)を知っている私からすると、仮に攻撃力は大したことがなかったとしても、ラスボスは「ロトの剣(勇者のつるぎ)」で倒したいと思ってしまいます。

そこには、受け継がれてきた意志や想い、願いがあるから。

人間はきっと意識しなくても、自分のDNAを残そうとあらゆる手段と通して血統や思想を次世代につなごうとしているのだと思います。「伝統」が担うのはそういう部分なんじゃないでしょうか。

「伝統がなくなるのは、もったいないから、怖いから?」

きっとそれだけの理由だけではないはずです。

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伝統のモノを買ったほうがいい」と断言するのなら、その理由はこういうことになるんじゃないかと思います。

「自分という幾重にも連なる物語の一部に “伝統” を取り入れることは、この世に生まれた意味を多く背負う役割を担えるから」

これこそが、人類という種族レベルで考えたときの「幸福度」につながるのかもしれない。よく言いますよね、人は幸せになるために生まれてきているんじゃないかって。

伝統から考える未来の消費文化という仮説は、もしかすると愛着という枠を超えて、すごく壮大なことを語ろうとしているのかもしれない。

「伝統の世界は需要と後継者問題、そして業種によっては素材そのものが失われているという問題に直面し、リミットもすぐそこまで来ている」

考えることを促進するメディアというのは、あまりに悠長かもしれません。

しかしゆえに「伝統を応援すればするほど、伝統を失わせるスピードを加速させているメディアや企業、インフルエンサーがいる」という事実も忘れてはいけないと思っています。

「道具は、生活のなかで使われてこそ喜びを感じている」
─本質を見失わないメディアであり続けたいと、想いを込めて─

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