〈連載小説〉ゲートキーパー(最終回)
瞼に暖かい光が当たっているような気がして目が覚めた時、ぼやけた視覚の向こうで自分を覗き込んでいるのが健一の顔だと解るのに数秒を要した。
「おっ、気が付いたか」
優しい声が耳元に届く。
彼は右手でナースコールを押し、詰所の看護師に「意識が戻りました」と伝え、再び由梨絵を見おろして自分の左手を握り微笑んだ。
『この人の声、好きだな・・・』
まだはっきりと覚醒していない意識の中で由梨絵はそう思った。
「鎖骨を折っているから、急に動いちゃダメだぞ。あ、それから右手の中指と小指も骨折しているからな」
そう言われて初めて自分の身体のところどころに鈍い痛みを感じた。すぐに由梨絵は自分の身に起こった事を思い出して声を放った。
「美玖ちゃんは?」
健一はより一層由梨絵の耳に顔を近づけ暖かな声で応えた。
「無事だよ。ちょっとたんこぶができただけだ。小児病棟で休んでいるよ」
それを聞いた途端、自分の心のどこかにぽつんと小さな穴があき、そこからどんどんと暖かいものが溢れ出てくるのを感じた。やがてそれは涙となり、由梨絵の両目からこぼれ出る。少し開いた自分の口からため息が漏れ、やがて震える嗚咽となった。涙が鼻や頬を伝いぽたぽたと枕に落ちた。
健一がハンカチでそれを優しく拭ってくれながら囁いた。
「由梨絵の身体が美玖ちゃんのクッションになったんだ。そして積もった雪も幸いした。雪が無かったらこうはいかなかっただろうな。由梨絵、頑張ったな。凄いぞ、偉いぞ」
自分の左手を握る健一の手に暖かな力が加わった。
カーテンが開き医師と看護師が入ってきて微笑んだ。病室の窓からきらびやかな日光が差し込み、由梨絵は思わず目を細めた。
「血圧も大丈夫ですね。この分だと三―四日で退院できると思います」
医師の説明では意識を消失したのは脳震とうのせいであった。今日中にもう一度検査をし、脳に異常がなければあとは骨折の治療をするだけだという。
「ベッド起こしましょうか?」
看護師がそう言って足元のレバーを回転させ、由梨絵を起こした。視野が高くなるにつれて、窓の外の青空と日光を浴びた町の様子がより見えるようになった。
健一の説明では美玖は今児童相談所の管理下にあり、係員が交代で付き添っているという。母親のさゆりは現在警察で事情聴取を受けていて、今後も自分の娘との面会は許されない。家庭裁判所の許可を受けなければ母娘は一緒に暮らせなくなるという。
安堵の念が込み上げた。
「身体を張ってゲートキーパーの務めを果たしたな。由梨絵」
健一の言葉が浸みた。
「じゃあ、俺は一旦帰って仮眠を取るよ。午後になったら由梨絵のお母さんを連れてまた来るから」
健一は立ち上がり、由梨絵の額に軽くキスをして微笑んだ。
「ありがとう。健一さん」
由梨絵は微笑みを返した。
健一が出て行って一分もしない内に初老の男性が病室に入ってきた。ボランティアで勤務している、『いのちの電話相談室』の室長であった。
「前原さん、大変だったなあ」
「室長・・・」
「児童相談所の人から連絡を受けてね。いやあ驚いたよ。それにしても無事でよかった」
しばらく会話を交わした後、室長が一通の封書を手渡した。
「昨日届いたんだよ。後で読んでみて。じゃあ、私はこれで。今度の木曜日は休んでくださいね」
そう言って出て行く室長を見送った後、由梨絵は包帯が巻かれた不自由な手でその封書を開いた。達筆の文章が目に飛び込んできた。
『拝啓。いのちの電話相談室職員の皆様。
私は木曜日の夜そちらに電話をした、市内で工務店を営む者です。様々な事から、もうこの世に決別しようと思っていた時、相談に乗っていただいたそちらの前原さんの優しいお言葉に触れ、自殺を思い留まることができました。弁護士に相談し、来週自己破産の手続きをしますが、前原さんの仰る通り、愛おしい家族が私を守ってくれています。今後はもっと前向きにこの人生を生きて行きたいと思います。皆様の尊いお仕事が、これからもこの世で様々な事にさいなまれている人々の一縷の光となりますように。くれぐれも前原さんによろしくお伝えください』
窓の向こうにはすっかり雪がやんで、遠くまで晴れ渡った世界が見えた。
込み上げて来るものがあった。
痛みを堪えながら身体を伸ばし、傍にあった携帯電話をとった。
「どうした?」
健一の声が返ってきた。
「健一さん、半年も返事をしなくてごめんなさい。私で良ければ結婚してください」
「やったあ! ありがとう、由梨絵!」
彼の明るい声が耳元で弾けた。
(完)
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