好きな人と、歩けばいい。 『会って、話すこと。』を読んで
田中泰延さんの『会って、話すこと。』を読んだ。
面白かった。
前著『読みたいことを、書けばいい。』の読後、私は長い文章を書いた。
長くなったのは、面白かったから、なのだが、世評と自分の受け止め方にズレがあったから、でもあった。
『会って、話すこと。』については、書評やネット上の感想に違和感はない。「元電通マンが金欲しさで書いた本」と正当に受け止められている。
どこかの本に「誰かがもう書いていることはわざわざ書かなくてよい」とあった。
書くべきことはほとんど残されていないので、圧倒的成長につながる実践的テクニックを共有したいと思う。
あたかも会話術のような体裁なので、何かのテクニックが書いてあるはずだと本書を手に取ってくださった方には申し訳ないが、そんなものはない。
(『会って、話すこと。』第5章 p222)
そんなものはない、と知りつつ。
誰かと一緒に歩く
大したことではない。
好きな人、仲良くなりたい人、もっと知りたい人がいたら、「一緒に歩いてみてはどうだろうか」というだけのことだ。
前を向いて話すことは、じつは対立の可能性を孕んでいる。相手に向かい合うおうとするとよくない。会話も、恋愛も、「かまって」「わたしに注目して」が失敗の元になる。だからバーでは、人は横に並んで座るのである。
(『会って、話すこと。』第2章 p88)
人間、向かい合ったまま一緒に歩くのは、担架を運ぶときだけだ。普通に歩けば、まず「対立」の心配はない。担架を運んでいるときはそれどころではない。
前を向いて歩いていても、少し向き直ることはできる。
呼吸があえば、二人の視線が合う。
そこから自然に目をそらすこともできる。むしろ時折、前や足元を見た方がお互いの身のためだ。
人と人が、会って話すことの究極は、一緒に旅することだ。二人は常に新しいものを見る。次々と経験したことのないことが起こる。身の上話や、悩み相談などしている暇はない。そこには「外部」しかない。他人と会って会話する時間は、じつに「人生を共に旅する」ことではないか。
(同、第5章 p240)
一緒に歩くのは、小さな旅だ。
見慣れた街なら、目新しいものには欠けるかもしれない。
それでも二人は、たしかに同じ「風景」を共有する。
身の上話や悩みを打ち明けることもあるだろう。
「距離を詰めすぎた」とヒヤリとする場面もあるかもしれない。
そんなときでも、カフェとは違って、歩くという運動と移り行く外部が助けてくれる。
「こんなところに、こんな店ありましたっけ」
「靴ひも、ほどけてますよ」
「夏にはあの神社のまわり、屋台が出るんですよ」
「お。ひさしぶりに1万歩達成」
「そこの本屋、ちょっとのぞいてみていいですか」
会話は自然に逸れ、流れ、転がっていく。
ほどけた靴ひもをうまく踏めば、「困った時はこけてみろ」も実践できる。
すでにちょっと親しい人なら、歩くのは夜がいい。
自分のことだけ話し続ける人にはうんざりすることはある。でも何かの予感で、一晩中頷きながら聞いてあげた。すると次会った時、その人は自分の話を一切せずに、今日見た雲の形や、空の色の話をしてくれるようになった。魔法のように。もし予感があれば、そんな夜を一度だけ越えることが人と人との「邂逅」なのではないだろうか。
(同、第5章 p232)
『スタンド・バイ・ミー』と『夜のピクニック』は時折読み返したくなる愛読書だ。長い時間、一緒に歩き、語りあった者たちの邂逅にふれたくなる。
いきなり「徹夜で散歩しましょう」ともちかけるのは無茶だが、「二軒目」を探して「ちょっと歩きましょうか」と誘うのは、おかしなことではない。
会話が弾んだら、迷った体で少し先の街まで足を伸ばせばいい。
特別な相手となら、夕方が最良だろう、と私が言っても信じないなら、永六輔がそう言っている。
目的地は、あっても、なくても、良い。
いろんな人と、会って、歩いて、話してみる。
それだけで何かが変わる、かもしれない。
知らんけど。
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