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「おカネの教室」番外編 パブに流れる3つの時間

「サッチョウさん、着きましたよ。このパブ自体がちょっとした名所です」

セントポール大聖堂の前から大通りを進み、小さなトンネルのような細い路地を右に入ると、カイシュウ先生は古い建物の扉をくぐった。僕は入り口の上の丸い看板を見上げた。

ロンドン最古のパブの1つ「イェ・オールド・チェシャ―・チーズ」

「REBUILT 1667」
「ロンドン大火」が、確か1666年のはずだ。セントポールの展示で「6が3つ並んでる」と印象的だったから覚えている。このパブ、セントポールより古いのか。スマホで看板の写真を撮る。夜7時過ぎなのに夕焼けの気配すらない。8月のロンドンの日没は夜9時を回る。
店内に入ると、階段を降りかけたカイシュウ先生が手招きする。2メートル超えの巨体は目立って便利だな、と思ったのもつかの間。このパブでは不便極まりない。階段は狭苦しく、180センチギリギリの僕でも頭を打つほど天井は低い。ほとんど這うように迷路のような階段を降りていく。
「ロンドン有数の老舗パブ、『オールド・チェシャー・チーズ』の最大の難点です。待ち合わせ場所に選んだ人を恨みましょう」

ようやく地下2階に着くと、20人ほどが店員2人しかいないカウンター前に群がっている。僕は首を傾げた。
「誰も並んでないけど、これ大丈夫?」
「ちゃんと先に来た人から頼めますよ」
「こんなカオスで、店員さん、すごいな」
「いや、店員はろくに順番を把握してません」
店員が「ネクスト!」と声をあげて白人のお兄さんから注文を取りかけたら、お兄さんが「次はあの人」といった感じでアジア系のお姉さんを指さした。お姉さんが笑顔を返す。
「みんな、ああやって順番を守るんです」

10分ほどで注文の番になり、カイシュウさんが「これを。1パイントを2つと、ハーフパイントを1つ」と木のレバーを指さす。お店の人がぐいっとレバーを倒すたび、白鳥の首のような注ぐ口からエールが出てくる。手動か。
「これ、お酒ですよね?」
「イギリスは保護者同伴なら16歳から飲酒OKです。このエールは度数も低いし、サッチョウさんでも大丈夫でしょ」
サッチョウさん、はもちろんニックネームで、僕の本名は木戸隼人という。3年前、中学2年のときに参加した「そろばん勘定クラブ」では、お互いをニックネームで呼んでいた。
カイシュウ先生の本名は江守。今はロンドンで金融関係の会社を経営している。もう1人のメンバー、ビャッコさんこと福島乙女さんは、中3の春からロンドンに留学中。この夏休みにクラブの同窓会を開こうと誘われ、僕は日本から飛んできたのだった。

アリの巣のようにふぞろいな小部屋が並ぶ地下を抜け、僕らは1階の入り口横に立ち飲みできるスペースを見つけた。
カイシュウ先生がスマホを見た。
「お。あと数分で着くそうです」
僕は「はあ」としか返事できない。これから誰と会うのか、カイシュウ先生はニヤニヤ笑うだけではっきり教えてくれないのだ。

「いやいや、お待たせしちゃって」
謝りつつも僕らの間にずけずけ割り込んだおじさんは、グラスを受け取ると軽く乾杯のポーズをとって、エールを3口ほど一気に流し込んだ。短髪で、ちょっと年齢不詳な、やたらと機嫌の良さそうなおじさんだ。
「いやー、これだね、やっぱり。あ、サッチョウさん、ロンドンへようこそ。いいねえ、夏休みにショートホームステイなんて」
初対面だと思うけど、妙になれなれしいな。
「私はタカイという、しがない新聞記者です。そんなことより、このパブ、素敵でしょ」
タカイさんが店内を見回す。言われてみると、100年ぐらい前に時計が止まってしまったような不思議な空間だ。あめ色のカウンターも、石畳の凹凸の床も、味がある。
「パブにはね、3つの時間が流れているんだよね」
タカイさんがぐっとエールを一口あおりながら言った。
「ほほう。興味深い説ですね」
「1つはお客さんの時間。我々3人がこうして会話を交わす間に流れる、この時間。友達や同僚、家族、恋人、あるいは一人のお客さん。それぞれの時間が流れている」
僕は奥の席のカップルを見て、ふいにビャッコさんを思い出す。
「もう1つがパブが持つ歴史の時間。このパブには、コナン・ドイルやディケンズも通ってたらしい。このすぐ先のオールド・バンク・オブ・イングランドってパブは、もとは19世紀末に建てた銀行の支店だった建物でね。ビクトリア朝らしい絢爛豪華なムードで、こことはまた違った時間が流れてる」
「ワタクシは、あっちの方が、天井が高くて落ち着きますね」

19世紀の銀行店舗を改装したパブ「オールド・バンク・オブ・イングランド」

おじさん二人がクスクス笑っている。どういう関係なんだろう、この2人。
僕が「それで、3つ目の時間って、何ですか」と聞いた。
タカイさんはクイっとエールを飲み干すと、「ここでは、ちょっと分かりにくいな。河岸をかえましょ」とグラスをタンっとカウンターに置いて、出口に向かった。

歩くこと10分。ちょっと人通りが減ったな。
「ここもね、実に良いパブなんだよ」
タカイさんの後を追って入ったパブは、やはり満員の盛況だ。カイシュウ先生が「ビャッコさんに場所をメールしておきましょうか」とスマホを操作した。
「3つ目の時間は、目には見えないところに流れているんだよね。ちょっと待って」
注文の順番が来ると、タカイさんはカウンターの向こうのお姉さんと何やら話を始めた。お姉さんはなぜかクスクス笑い、しばらく考えて、ハンドレバーの一つを選んでぐいぐいと倒し始めた。
1杯目を注ぎ終わり、2杯目の途中で、「ブシュ!」と流れが止まった。お姉さんが満面の笑みを浮かべ、タカイさんが「ラブリー!」とガッツポーズを取った。
お姉さんがいったんお店の裏に引っ込み、戻ってきて同じレバーから2杯目のエールを注ぎなおして「エンジョイ!」と手渡してくれた。
「さて、これが3つ目の時間の正体だ。サッチョウさん、まずはこれをどうぞ」
2杯目に注いでもらったエールを口に含むと、果物のような香りが広がった。苦いだけに感じる日本のビールより、おいしいな。
タカイさんが「次はこれ」と1杯目のエールを差し出した。今度は、口に入れた途端、酸っぱさにむせかえった。カイシュウさんも2つを飲み比べて満足げにうなずいてる。
「これ、同じエールなの?」
咳が収まった僕が聞くと、タカイさんが「そう。でも、『若さ』が違うんだよ」と言った。
「若さ?」
「ここのエールはね、カスクという特殊な樽に入ってて、お店に置いてある間にどんどん発酵が進むんだ。今はカスクが切り替わりそうなエールをわざわざ頼んだんだよ」
カイシュウ先生が「エールは上面発酵という手法で常温で発酵させます。しかも出荷時に酵母を抜かないのです」と補った。
「だから、どんどん味が変わる。ちなみに日本は、発酵温度の低い下面発酵で、酵母は抜いて出荷するピルスナーってビールが中心だね。その方が品質は安定しているから、どこでいつ飲んでもほとんど同じ味がする」
僕はもう一度、2杯のエールを飲み比べた。とても「同じ飲み物」とは思えない。
「エールだって、その気になれば味がコロコロ変わらないようにできるんだよ。樽に空気が入りにくくするとか、温度管理するとか。でも、ここみたいに新しいパブでも、わざわざ『リアルエール』を売りにしてたりする」
「なんでですか」
「カスクの方がエールの味わいが深くておいしいってことは、もちろんある。でもね、私は、これは半分遊びだと思ってるよ。時間の流れを楽しむ、大人の遊び」
「遊び?」
「うん。だってさ、この1杯目のエール、正直、どう思う?」
「うーん。薄めたお酢みたい」
「だろ? これは明らかに発酵しすぎ。お店はちゃんと味がベストの時にお客さんに出しているんだけど、読みが外れて売れ残ってたりするとこうなっちゃう。ここまで来たら普通は捨てちゃうんだ。今日は、『3つ目の時間』を味わってもらうために、わざわざそういうのを出してもらったわけ」
そんな変なリクエストだったから、お姉さんが笑ってたのか。
「歴史を感じるゆったりした空間で、気の合う友達との楽しいひと時を、刻々と熟成されるエールを味わう。3つの時間を楽しむのがパブ、というわけですか。いいですねえ」
「最近、日本じゃ、手っ取り早く酔っぱらうためにビールに焼酎を混ぜたり、コンビニでもやたらアルコール度数が高めのチューハイが売れたりしてるでしょ。イギリス人も酔っぱらうのが大好きな国民だけど、なんかこう、日本は、余裕がないよねえ」

僕はおじさん二人の会話を聞きながら、もう一度、おいしい方のエールを試してみた。やっぱり、おいしい。
「気に入ったかな、その銘柄。でも、次に来てまた頼むと、発酵の具合で微妙に味が違ったりするんだ。そういう、大人の遊び」
面白いなあ、ともう一口飲みかけたところで、タカイさんが「あ! ビャッコさん! こっち、こっち!」と入り口に向けて手を振った。
目を向けると、白いワンピース姿のビャッコさんの目には、明らかに「見知らぬ誰か」に大声でよばれた戸惑いが浮かんでいた。でも、僕とカイシュウ先生の姿を確認すると、笑顔が浮かべてこちらに歩いてきた。
「さ、さ、ビャッコさんも、このエール、飲み比べてみてよ」
ビャッコさんはまだ戸惑っている。ほんと、なれなれしいな、このオジサン。いったい何者なんだろう…。

本稿は2018年11月発行のミシマ社の雑誌「ちゃぶ台」Vol.4に掲載されたものです。転載をご快諾いただいたミシマ社さんに感謝いたします。
「ちゃぶ台」Vol.5、10月発売でAmazonで予約開始してます。「宗教×政治」がテーマか。面白そうだ。なお、今回は私は寄稿していませんので、番外編の続きはございません(笑)

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