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人を優しくするなら、クリスマスも悪くない

クリスマスというイベントは、昔からしっくりこない。
堀井憲一郎の名著『若者殺しの時代』にあるように、日本におけるクリスマスの位置づけは1980年代に「子どものイベント」から「恋人たちの大切な日」へと変質した。変質させられた。消費のドライバーとして。

1972年生まれの私にとって、子どものころのクリスマスは「頼むとオモチャが買ってもらえる日」だった。
ところが、小学校2年生のクリスマス前に、新聞の折り込みチラシを見て「今年はこの、ミクロマンのロボットの2がほしい!」とひとりで盛り上がっていたら、いきなり母に「あんたみたいな子のとこには、サンタは来んわ!」と一刀両断された。

(確かコレ。戦車に変身する。こちらのサイトより)

え? 去年まで来てたのに?
サンタ、爺さんだし、死んだ?
とっくに「サンタバレ」していたからそんなことは思わなかったが、「オレ、なんかやったっけ?」とワケが分からなかった。
実際、その後、我が家にサンタが来ることはなかった。自営業の家業が傾いただけだったのだが、子ども時代、クリスマスは「よその子はおもちゃがもらえて、自分はもらえない」というイベントになった。ちなみに「ボーナス」という概念も自営業にはないので、マンガで出てくると「一体何だろう」と不思議だった。

堀井先生のご指摘通り、中高生くらいになると、クリスマスは「1年前から恋人のためにレストランやホテルを予約する」みたいな馬鹿馬鹿しいイベントに変わっていった。バブル到来である。そんなニュースをみて「馬鹿じゃねーか」と辟易したものだ。
学生時代はそれなりにイベントとしてクリスマスをこなしていたが、どこかで「なんだかなー」という気持ちは残っていた。

私がクリスマスと和解したのは、自分の子どもが生まれてからだった。
子どもにクリスマスプレゼントをあげるのは、楽しい。
三姉妹全員に「サンタバレ」するまでは、サンタさんへの手紙で希望を把握し、トイザらスで買ったおもちゃを隠し、NORADのサイトを見せて「サンタが迫ってきた!早く寝ろ!」とけしかけ、翌朝の娘たちの笑顔をみてホクホクしていた。
愉快なサンタバレの経緯はこちらの投稿に。

もうイベント感はないけれど、クリスマスも悪くないなと思うようにはなっている。
人が人に優しくなる、そんな思い出が残るきっかけになるところは、悪くない。
そんな話をいくつかシェアします。

ロンドンの地下鉄にて

2年ほど前のロンドン、同僚と美味しいレバノン料理を食べて帰宅する地下鉄にて。
隣のお姉さんが、すごく楽しそうにお兄さん2人と大声で喋っていた。
しばらくしてお兄さんたちだけ降りた。

すると、お姉さんが周りの乗客の女性3人に、
「地下鉄で大声出してごめんなさい。でも、感じよくしたかっただけなの」
と笑いながら言い訳を始めた。
お兄さん2人は赤の他人だったらしい。

今度は赤の他人のお姉さんたち4人でマシンガントークが始まった。
「あなたは悪くない。というか、楽しそうで羨ましいくらい」
「ロンドンって、普段はみんな冷たいから、クリスマスとかいいよね」
「そうそう、ああやって喋らないと、寂しいよね」
「でも、声デカすぎ」
大笑いした後、一番年上のおばさまが、
「アタシの地元じゃ、あれが普通。ロンドンもいつもこうならいいのに」
とまとめ、最初のお姉さんが先に降りるときには、みんなが
「これ、ツイートしてよ!」
と声をかけて、お姉さんは、
「了解!メリークリスマス!」
と颯爽と降りていった。

お見舞いは紙芝居

お次は7年前のクリスマスイブのお話。
その数日前からインフルエンザにやられた私は、昼間から家庭内隔離部屋で布団にもぐりこんでいた。
そこへ幼稚園の年長さんだった三女がドアの隙間から顔をのぞかせた。
「おとうさん、なんじにねるの」
「ん?薬のんだから、もうしばらくしたら、かな」
「はやくねて」
そんなこと言われたって、と思いつつウトウトしていたら、数分後、ドア付近でゴソゴソと気配がした。
素早く寝たふりをした。
薄目で見ていたら、マスクで完全防備した三女が忍び足で枕元に何か置き、猛ダッシュで逃げていった。
脱出時の音がでかくて笑いをこらえるのが一苦労だった。
枕元に置かれたのは……。

クリスマスプレゼント!
封筒になっていて、中身はお手製の紙芝居だった。

クリすます
きょうわ くりすますいぶ こドもわ もうねています
さんたさんわ しゅっぱつ(ぬきながら)

「ぬきながら」って書いてあるのがおかしい。

いそいだけド こドもにぜんぶわたせません
だから、うなてるあいだに あさになてしまいました(ぬきながら)

「ぬきながら」、くどい(笑)
サンタ、「うーん」って、うなってるな、ちゃんと。

さんたは いそいで かえていきました
おわり おわり おわり

おい!
いいのか、これで!?
当時は「ど」が書けなかったんだな。
なお、高井家は「いいまつがい」と「へんな字」は、かわいいので極力、直さない主義で3人とも育てました。

アンパンマンのサンタクロース

これは以前の投稿のリンクを。
字も読めない2歳の長女が、読み聞かせまくっていたら絵本を丸暗記した、という親馬鹿ネタです。

ファミリー・クリスマス

最後に、この季節に読み返すポール・オースターが編者の『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』のお気に入りのエピソード。

アメリカのラジオリスナーの投稿を集めた本で、編者曰く「誰かがこの本を最初から最後まで読んで、一度も涙を流さず、一度も声を上げて笑わないという事態は想像しがたい」。
以下、引用。

ファミリー・クリスマス

(これは父から聞いた話だ。一九二〇年代前半、私が生まれる前にシアトルであった出来事である。父は男六人、女一人の七人きょうだいの一番上で、きょうだいのうち何人かはすでに家を出ていた。)

 家計は深刻な打撃を受けていた。父親の商売は破綻し、求職はほとんどゼロ、国中が不況だった。その年のクリスマス、わが家にツリーはあったがプレゼントはなかった。そんな余裕はとうていなかったのだ。クリスマスイブの晩、私たちはみんな落ち込んだ気分で寝床に入った。
 信じられないことに、クリスマスの朝に起きてみると、ツリーの下にはプレゼントの山が積まれていた。朝ごはんのあいだ、私たちは何とか自分を抑えようとしつつ、記録的なスピードで食事を終えた。
 それから、浮かれ騒ぎがはじまった。まず母が行った。期待に目を輝かせて取り囲む私たちの前で包みを開けると、それは何か月か前に母が「なくした」古いショールだった。父は柄の壊れた古い斧をもらった。妹には前に履いていた古いスリッパ、弟の一人にはつぎの当たった皺くちゃのズボン。私には帽子だった--十一月に食堂に忘れてきたと思っていた帽子だった。
 そうした古い、捨てられた品一つひとつが、私たちにはまったくの驚きだった。そのうち、みんながあんまりゲラゲラ笑うものだから、次の包みの紐をほどくこともろくにできない有様だった。でも、いったいどこから来たのか、これらの気前よき贈り物は? それは弟のモリスの仕業だった。何か月ものあいだ、なくなっても騒がれそうにない品をモリスはこつこつ隠していたのだ。そしてクリスマスイブに、みんなが寝てからプレゼントをこっそり包んで、ツリーの下に置いたのである。
 この年のクリスマスを、わが家の最良のクリスマスのひとつとして私は記憶している。

ドン・グレーヴズ
アラスカ州アンカレッジ

ええ話やなぁ。

ということで、皆さま、メリー・クリスマス!

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