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趙紫陽 徹底的反封建主義 2000/07/02

杜導正《杜導正日記  趙紫陽還説過什麽?》天地,2010,pp.160-161

2000年7月2日(日曜日)
 昨日、北京はとても暑く、全市は39度、天安門広場の地面は56度に達した。今日はなお高温で全市は36度だというが、実際はもっと高くなっている。
 錫華、舒元璋(シュー・ユアンチャン)が洪達の家の前で集まり、それから蕭洪達と一緒に趙家に行った。趙の入り口には武装警察が2団おり、入るとき、警衛はわれわれに身分証をかれらに預けるように要求し、蕭、舒ともに差し出した。
 趙の書斎で我々は、録音を整理したことを話した。文字数は整理して4万2000字になった(楊繼繩ヤン・チーシェンが整理した6000字を含む)、帶子ともで8枚、3セット。洪達は一セットを胡耀邦に渡した。趙はさらに5枚録音したといった。今私に渡すと。趙は煙台に行く計画があり、およそ一か月後(8月20日)北京に戻る。趙が言う、我が家の老五が米国に住んでいて、二人の子供を産んだが、まだ(この)爺さんとばあさんに会っていない。二人の孫にちょっと会う(認識)ために、少し考えて、煙台にゆくことにした。
 趙は以下の点を話した。
 一、わたしが総書記に就任した一年(最初の年)、老人たちはなぜすぐに私が気に入らなくなったか。私が総書記になる前、彼らは私を結構気に入っていた(還好)。主として反自由化というこの問題でだ。陳雲と李先念は私が胡耀邦より強硬に出ると思い込んでいた、ところが私はまったくそうしなかった。私は鄧力群が保持していた宣伝戦線のグループを調整、解散したことを、老人たちは怒っていた。ある時、李先念はこういった。「趙は社会主義をやれるだろうか?」「趙紫陽は西欧のものをあまりに多く学んでいる。」
 二、導正は何回か私に中共と国際共産主義運動の根本的経験教訓を反省することを求めた。最初は私は題目が大きすぎると感じられ、話したくなかった。あの日(2000年6月22日の談話を指す)導正は私のところに来たとき少し単純化して話した。東方革命はそうであるべきだし、我が党が指導したこの革命は、客観的に必要で、良いものだ。問題はこうだ。封建主義の根は深く厚い、民主はまったくない、経済は遅れた(そのような)国家は革命後、生産力を発展させ、民主を発展させねばならなかった。しかし我々はその道を進まなかった。・・・中国封建主義は数千年(歴史がある)、反封建主義をせず、徹底的に反封建主義をせずでは、どの国の良いものが入ってきても、すべて変質してしまう。中国は反封建主義を必ず徹底せねばならず、民主を提唱せねばならない。当然これは長期の進歩過程である。・・・マルクスの多くのものは良い。しかし資本主義がその枠組みの中で、自身を変化させ調整し完全なものにする能力についての予測は不十分だった。実践が証明しているところでは、資本主義はそのように変化調整完全になり、成功したのだ。

#趙紫陽 #マルクス #資本主義 #封建主義 #中国

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