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杜潤生 (1913-2015)

wikipedea(2019年6月6日閲覧)
杜潤生(ドウ・ルンシェン 1913年7月18日ー2015年10月9日)元の名前は杜德,山西省太谷県陽邑村人、中国の経済学者。長い時間深く探求した(資深)農村問題専門家。「中国農村改革の父」の称号を得る栄誉に浴している。(写真は肥後細川庭園にて)

生平
 早年生涯
 杜潤生は没落した富農家庭に生まれた。杜潤生の祖父、そして父は商人であり(經商)、のちに農民に転じた。5歳のとき母を弔い、13歳のとき父を弔った。そのため杜潤生は自身の生まれた日を知らなかった。杜潤生が幼かったころ、家庭の債務は重く(沉重),(別人説)「お父さんは家のことを管理できず、家のことをかまうほど貧しくなった(以致越理越窮)」。
   小学校を卒業後、杜潤生は1年店員となり、間もなく辞めて故郷に戻り進学に備えた。その間、彼は《向導日報》(1922年から1927年にかけて上海で刊行された向導周報のことだと思われる。なぜ向導が読めるところにあったかは興味深い。訳注)と《共産主義ABC》を読んだ(閱讀了)。彼は読んで理解できたわけではないが(雖末讀懂)、社会は改造されねばならないことを知り、また「家が貧しいのは、お父さんが悪いわけではなく、社会が良くないからだということ」に気が付いた(悟出)。

学生運動
 1927年に杜潤生は母方のおじさんの援助を得て、太原山西省立国民師範学校を受験し合格した。同校にはもともと革命の伝統があった。時は北伐戦争が終わるところ(この北伐は蒋介石による第三次北伐戦争を指している。それは蒋介石による1926年7月に北伐宣言にはじまり、1928年12月の張学良の降伏で終わる。その間に、1927年3月の南京事件、1927年4月の上海クーデター、1927年5月の日本の山東出兵、1927年9月蒋介石と日本との東北権益に関する密約、1928年5月の済南事変が起きている。訳注)、三民主義はいまだ実現せず、各党派は次々各自の主張を宣伝している。杜潤生はかつて中国国民党改組派に希望を託していたが、そのメムバーが官僚になるや腐敗したので、大いに失望した。蒋介石は中共を鎮圧し、九一八事変(1931年の満州事変のこと 訳注)のあと日本に対して隠忍政策をとった、杜潤生はこのことにとても不満だった。抗日救国(救亡)運動において、杜潤生は中国共産党に接近したいと強く思ったが、中共党組織にたどり着けず、その他の青年たちとともに自主組織”九一八読書会”を組織し、日本製品に抵抗し、反日(抗日)を宣伝した。のちに山西省立国民師範学校に学生会が生まれたが、杜潤生はその学生会の幹部になった。

 中国共産党の影響を受けて、太原の学生運動はもはや勝手な方向に動くことはなかった(不在放任自流)。闘争の矛先はまっすぐ中国国民党に向けられた。山西省立師範学校校長の梁先達と教育所所長の苗培成はともに中国国民党山西省党部委員であり、学生が抗日運動に従事することを力でおさえ、学生はついに梁先達と苗培成駆逐闘争を始めた。中国国民党山西省党部を包囲する請願活動が発動された。杜潤生は学生代表の一人だった。軍警が当日の会場で銃を構えた(開槍),一人が殺され、十数人がケガをして、杜潤生もケガをした。杜潤生は考えた。「共産党というこのような組織がなければ、帝国主義そしてその走狗である国民党反動派を打倒はできない。」1932年10月、杜潤生は、中国共産党外国組織抗日反帝同盟会、そして中国左翼社会科科学連盟に前後して加入した。

   梁を追い払う学生運動は(山西省の支配者である軍閥 訳注)閻錫山(ヤンシーシャン 訳注)反対運動にまで発展するや、すぐに残虐に鎮圧された。杜潤生は、密告(通緝)に会い、故郷に避難せざるを得なかった。1933年に杜潤生は、北平(北京 訳注)に着いて国立北平師範大学文史系を受験合格し、併せて学生運動に引き続き従事した。1935年に杜潤生は、同郷人の密告により逮捕され、数か月の収監ののちに釈放された。一二・九運動において、杜潤生は、学連代表であり、のちには中華民族解放先鋒隊区隊長、総部宣伝部長だった。1936年夏、杜潤生は中国共産党に加入した(23歳 訳注)。

抗戦から内戦へ
 1937年に抗戦が爆発したあと、杜潤生は、太行山区で抗日ゲリラ戦に参加し、晉冀豫(チンチーユ 訳注)抗日義勇軍第三支隊隊長、太行区党委員会宣伝科科長、太行太岳翼南連合事務所(辦事処)所長、晉冀魯豫(チンチールーユ 訳注)辺区政府委員、教育長秘書主任、太行山六分区専員、二分区専員、太原軍調小組軍事代表、太行区党委城市部太原城委書記、太行行署副主任を歴任した。

    1942年の整風運動の中で、中共党組織は杜潤生について、指導能力が強く、思想鋭敏で突出しており、理論の素養があるとの評価を与えた。

 第二次国共内戦中の19471947年から1949年、杜潤生は劉と鄧の大軍に従って南下し、大別山の戦闘(1947年6月末から8月にかけての戦闘。劉と鄧の大軍は、山東の根拠地からでて安徽、河南にまたがる内陸部を南下。揚子江の北辺の大別山に達している)に参加して敵を圧倒し(參加挺進)、のちには淮海戦役(1948年11月から1949年1月 国民党軍と共産党軍の間の三大会戦の一つ。山東から出て、江蘇、河南にまたがる海に近い一帯での会戦。これに敗れたことで国民党軍側の敗色は固まり、共産党軍の揚子江渡河、上海・南京攻略を待つ状態となった。他方三大会戦の残りの二つの会戦とは、北方でまず遼瀋戦役1948年9月から11月で東北地方が共産党軍側の支配に落ちたこと、そして続く平津戦役1948年12月から1949年1月で北京・天津を国民党軍側は失ったこと。この二つを指す。)に参加した。所在したところでの土地改革運動を参加指導、中共中央中原局秘書長、中共中央華中局秘書長、淮西区工委書記、中共豫皖苏地区四地委書記を歴任した(このような職歴は戦争後の支配地域の行政責任者を一貫して勤めたことを示している。訳注)。

土地改革から農業合作化へ
 中華人民共和国成立初期、杜潤生は、中共中央中南局秘書長兼政策研究室主任、中南軍政委員会土地改革委員会副主任に任ぜられた。中南区の土地改革運動の指導において、杜潤生は、段階を分けて土地改革を進めることを提起した。すなわちまず広く群衆を行動に立たせ(發動)、地主の強盗行為を討伐し悪行行為を清算させ(剿匪反霸 チアオフェイファンバー)、農会をしっかり組織させる。そのあと再び土地分配の段階に入る。杜潤生は、また幹部が地方に下って土地改革に参加するとき、群衆とともに食べ、同じところに住み、同じ労働をすることを提起した。毛沢東は杜潤生が提起した、段階を分けて土地改革を進める主張を肯定した。1951年2月、毛沢東は中共中央に代わって起草した評価(批語)において、「このようにすることが完全に必要だ」、「土地改革の正確な順序(秩序)は、本来このようにあるべきだ」と称えた。
 
 土地改革についての態度発言が特に優れており、杜潤生は中央指導者の称賛を得たことから、1953年初めに北京に移動させられ、中共中央農村工作部秘書長、兼国務院農林辦公室副主任に任ぜられ、全中国の農業合作化(集団化=農作業の集団化、所有の集団保有への移行を指す 訳注)運動に参与指導した。

 農業合作化運動の初期、中央が農民の互助合作推進を決議したことを受けての過程で、中共中央農村工作部長の鄧子恢と秘書長杜潤生はいくつかの意見を提起し、当初毛沢東の支持を受けた。その後、農村で合作社を建設する勢いが猛烈となり(勢頭迅猛)、鄧子恢そして杜潤生(の二人)と毛沢東との間に意見の食い違いが生じた。第一も毛沢東は農業生産合作社の発展速度が急速(快)でなければならないと主張したが、二人は少しゆっくりと主張した。第二は、中共中央中南局土地改革が終了後、二人は農民に経済活動の自由、すなわち、商品交換の自由、貸借の自由、雇工の自由、田畑の貸借の自由、併せて「四大自由」、を与えることを提案(提議)した。毛沢東はこれは資産階級民主革命派の主張だと考えた。第三は合作社の形式で二人は一種類に限らず多様化を主張したが、毛沢東は一種類を主張した。(二人の)以上の意見を毛沢東はすべて受け入れず、右傾の誤りとして批判した(斥)。(この記述では鄧子恢そして杜潤生が合作化について意見の違いが全くなかったかについては分からない。しかし、例えば発展速度について、杜潤生は毛沢東と争うまでことを大きくするつもりはなく、また四大自由もすぐれて鄧子恢の主張だったと思える。訳注)

    1955年10月、中共中央は七届六中全会を拡大招集した。会議において、毛沢東と主要な中央指導者は鄧子恢と杜潤生との名前を挙げて批判し、二人は「社会主義の波の高まりを前に足の小さな女のように(このあとの会議では「小脚女人」と称された)(フラフラと 訳注)道を歩んでいる、とした。鄧子恢と杜潤生はともに自己批判した。その時、中共のある人*は鄧子恢と杜潤生の責任が厳しく問われねばならない(要嚴究××××的責任)と提起したところ、毛沢東は次のようにとりなした。「杜某は良い同志で、土地改革では断固(堅決)としていた。合作化については、社会主義革命の経験が不足していた。一段下がったところでしばらく実践すればそれで充分だ。」毛沢東は農業合作化運動を推進するため、さらに『中国農村の社会主義の高まり(高潮)』なる一書を編集著述し、それぞれの編を校正し言葉を加えた。
(このある人は陳伯達だとされている。白石和良「解題」『杜潤生中国農村改革論集』農村漁村文化協会、2002年, pp.11-24, esp.13)
  (鄧子恢については以下を参照されたい。福光寛「農業政策で主張を堅持 鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972)」『成城大学経済研究』第218号, 2017年12月, pp.451-491.)

科学事業
 中共七届六中全会のあと、杜潤生は中共中央農村工作部秘書長の職務を解職された。毛沢東の意思によれば、杜潤生は本来は地方で任官されるはずであった。しかし1956年初め、中共中央組織部部長が杜潤生を探しだして次のように話した。「まず地方に行かなくてよい。国務院では最近、科学規則委員会を作った。規則委員会の下に事務室が設けられた、(そこに)実際に仕事をする同志に行ってもらいたい(要幾個具體抓工作的負責同志去)。」1956年3月14日、国務院は正式に国務院科学企画委員会を設立した。主任は陳毅、副主任が李富春、郭沫若、薄一波、李四光、秘書長兼委員会辦公室主任が張勁夫,辦公室副主任が范長江と杜潤生だった。杜潤生は十二年科学遠景企画をまとめる責任者(主筆)となった。

   1956年5月、杜潤生は中国科学院副秘書長に任ぜられた。1960年8月、杜潤生は中国科学院党組織副書記兼秘書長に任ぜられ、1967年1月までその地位にあった。1957年の反右派運動時に、張勁夫と杜潤生は『反右派闘争中、自然科学家にいかなる態度をとるかという政策の限界(界限)』という文書(文件)を中心になって起草し、自然科学家を保護した。この文書は中共中央の批准を経て下達(下發)された。中国科学院の北京地区では、この文書はよく貫徹された。当時、中国科学院の北京地区の自然科学家の中に右派として打倒されたものは一人もいない。1957年に杜潤生はソ連を訪問し、年末に帰国してすぐに中央に報告した。「ソ連の知識分子政策を真剣に分析して、レーニンとくにスターリンが知識分子に対し大量かつ残酷な打撃を与えたことを指摘する。我が国ではソ連のやり方を真似るべきではないと考える。」(中国の反右派闘争において、それが社会科学分野や文学などの領域に集中し、自然科学分野の研究活動が維持されていたという言い方は時にある。しばしばそれは学問の性格の違いから説明されるが、実は張勁夫と杜潤生による提起と中共中央の判断による結果だということがこの記述からわかる。ただ反面、自然科学は無事だったといえるか?という疑問はある。ソ連でスターリン主義がもたらした非科学主義の例に遺伝学におけるルイセンコ論争がある。これはルイセンコという遺伝学者の環境の影響を過度に重視した非科学的な議論をスターリンが支持したが起こした問題を指す。問題はそれが、反対する遺伝学者の弾圧につながり、さらに間違った農法を全国に普及させ、結果的に飢饉の一因をつくることになった。ただ同じようなことは中国でも起きた。反右派闘争とほぼ同時に進められた『大躍進』運動において、中国で進められた「革新的」農法の議論は、ルイセンコ論争の問題と似ている。深く掘ったり、密植が、収量を一挙に高める方法として有効だとの報告を受けた毛沢東は、これらの方法の普及を呼び掛けた。また、収量が高い新種が突如うみだされる神秘が続いたのは、この大躍進のときだった。以下を参照。陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社,2014年,pp.112-120.  農民に集団化を強制することが、農業生産力を高めることにつながらないなか、スターリンだけでなく毛沢東も農法の改善が収量を劇的に改善することを期待したのではないか?と思わないではない。土地の水の吸収や水はけをよくするために少し掘ったり、収量を上げるために密植するといった手法は現在でも指摘される。問題は、そこに非科学的なものが加わったこと、あるいは自然科学を知る人たちが沈黙していたことだ。人々は政府の指導を超えて人々は深堀りし密植し、収量はかえって低下した。同上書p.115 。
   以下は北京大学の哲学科の学生が1957-1958年頃、農村に入った様子を示すことが記載されている。農業を何も知らない学生たちが、農村に入って指導者のように振る舞い、挫折している。深く掘り、密植したことについて、我們很快就覺悟到,這是一件徒勞無功的傻事。陳瑞生《在盧城的難忘歲月》戴《青春歲月在北大》社會科學文獻出版社,2012年,pp.215-225, esp.217-219. 農民から人民公社よりは「包産到戸」が良いと話しかけられた(同前p.56)。農民から深翻は、耕作になじんた土を埋めて、太陽にあたっていない生土を上にするもので、これでは作物が育たないと指摘を受けた(同前p.92)。「衛星(放衛)田」と呼ばれる試験田を任されたが、農民は予想収穫量を聞いて、そんな量は聞いたことがないとあきれていた。果たして神様が見ていたのか(老天有眼)、深く掘って大量に肥料を与えたが、その結果は蒔いたのと同量を収穫しただけだった(同前p.110)。
    同じような無駄や徒労は、やはりこの大躍進期に展開された土法による「製鉄」生産においても繰り返された。製鉄生産の条件を整えることが無視されたやり方で作られたものは結局つかいものにならなかった。結局は多大な労力、資源が無駄使いされたが、そこでも問題になるのは、自然科学を知る人たちが沈黙を強いられていることだ。参照、薄一波《若干重大決策與事件的回顧》2008年版,pp.494-500.  この本は1988年に書き上げられ出版公刊は1993年。ここでは手元にある2008年版を使う。葉永烈《它影響了中國  陳雲全傳》華夏出版社四川人民出版社聯合出版,2013年,pp,190-191-こうしたことを見ると杜潤生が努力した結果、反右派闘争など中国の思想闘争で、社会科学だけが災難を受け、自然科学は無事だったとは言いにくいと感じる。ルイセンコについては新中国や北朝鮮の農業不作の原因をつくったとして、その非科学性が強く非難されている。しかしたとえば1)中国で行われた個々の農法にどこまでルイセンコ自身が関与したのか、2)密植や深堀などそれ自体は今日も増産方法として指摘されるものが失敗した理由は適切な手法で行われなかったからではないか、などの疑問は残る。また接ぎ木雑種というルイセンコの考え方は、正しかったとされている。訳注)

 1961年に杜潤生は科学工作十四条の起草工作を担当したとき、知識分子は資産階級に属するとの結論を変えようと小さな穴を開けるため、心思を使い果たすまで使って(煞費苦心)”初歩紅”(ネットで検索すると、知識人は本当に紅とまでは言えないが、紅になり始めているとして、知識人を擁護したということがこの言葉の意味であるようだ。初歩とは入門といった意味。訳注)の概念を、提起した。これは1962年周恩来、陳毅が広州会議において知識分子に”敬意を払う(脱帽加冕)”前触れ(先声)となった。1958年そして1959年の状況については(鑒于),杜潤生は、学術工作、学術問題と政治問題とは区別されるべきだと提起した。学術問題や学術争論を政治問題、はなはだしくは敵味方問題に好き勝手に格上げしてはならないと提起した。

 文化大革命の時期、杜潤生もまた打撃迫害を受けた(挨整)。しかし彼は自らできる範囲において、中国科学院の科学者を国内で保護し、批判闘争から免れさせた。しかし文化大革命のなかで、杜润生は中国共産党党籍を解除された。(「文化大革命」の間、中国の中等教育・高等教育は機能を停止し、基礎科学は政治・生産・実際から遠いとして軽視された。極めて多くの科学者が迫害を受け、死に至っている。「文化大革命」の教訓は大きいと思われるが、共産党の歴史書を読んでいると、共産党政治がもたらしたこのような負の成果についての記述は簡略で、反省が不足しているように思える。以下を参照。中共中央党史研究室『中国共産党的九十年』中共党史出版社, 2016年。訳注)

包産到戸(農業の戸別責任制)
 中共十一届三中全会のあと、中共中央は鄧子恢と中共中央農村工作部の工作についての評価を改めて行い、鄧子恢と杜潤生の主張が正しかったとして、それは根拠のない言葉ではなく(不實之辤あるいは不實之詞)、今後も覆されることはないとして、鄧子恢と杜潤生の旧案は名誉回復を得た(獲得平反)。1978年に杜潤生は名誉回復され社会復帰した。

 1979年に杜潤生は新たに設立された国家農業委員会副主任となったが、序列は最後であった。主任は彼が中共中央中南局時期の古い仕事仲間(老搭檔)王行重だった。王行重は”包産到戸(農業の戸別責任制)”は賛成でなく、当時中央の高位指導者の華国鋒、李先念も”包産到戸”に賛成でなかった。胡耀邦と鄧小平は態度を明確にしてなかった。杜潤生は"四大自由"の思想があり、”包戸到戸”を支持していた。ある同志は杜潤生に中共中央と緊密にするよう忠告した。(左遷された 訳注)鄧子恢の教訓を受け入れ、”包産到戸”にこだわるべきではないと。杜潤生は少しずつ歩んで突破口を探し、”包産到戸”の割れ目を少しずつ広げていった。

 杜潤生は万里の安徽省の改革を支持した。1980年に、中央の長期企画会議において、まず貧困地区で包産到戸を試行することを提起した。建議は国務院副総理の姚依林の支持を得た。のちには鄧小平も同様にとうとう賛同を表明した。ある談話の中で、鄧小平は安徽省肥西県の包戸到戸と鳳陽県の”大包干”とを賞賛(賛揚)した。

 しかし1980年後半に中央が招集した省市自治区の党委第一書記座談会において、池必卿、周蕙,任仲夷の3人の省委第一書記を除く、多くの参加者は杜潤生が起草した、「ただ群衆の要求により直ちに包産到戸を認める原則に不同意だった。会議に参加した本当に多くの人はかつて毛沢東と一緒に戦った老同志だった。会議の休憩時間に、一人の同志が杜潤生を引っ張り出していった。「包産到戸は晩節に関係している。われわれは意見はあるが提案できない。記録してもらえるといいのだが。」意見は深刻に分かれており、会議の続行進行はむつかしい。杜潤生は胡耀邦、万里と対策を協議した。杜潤生は巧妙に文書を書き直し、中発(1980)75号文件「中共中央の今一歩農業生産責任制を強化かつ完全にする幾つかの問題の通知」を最後にまとめた。もっとも重要な修正は、前面に書き加えられた以下の一節である。

『集体経済(集団経済 訳注)は、わが国農業の現代化前進の動揺してはならない基礎である:しかし過去の人民公社から人々が抜け出る方法は改革が必要である。現在の条件のもとで、群衆が集体経済に満足であれば、包産到戸をする必要はない。集体に信心が失われている、また包産到戸を求めている者は、包産到戸をしてよろしい。かつ長い時間、(包産到戸を 訳注)安定保持してよろしい。』

 この文件は多年形成されていた包産到戸などは資本主義を復活させるものだという古い観念を打ち破り、中国の農村にとても大きな思想震動を引き起こした。

 1981年に中央は、全国農村会議を招集した。会議が終わってほどなく、時の国務院総理趙紫陽は、東北考察期間に書簡を返して建議した。「場所が違うので形式が違うともはや強調する必要ない。群衆が自ら選び、選んだらそれでおわりだ。指導者が道をふさぐこと(硬堵)は不要だ。」杜潤生はこの精神で1982年中央1号文件すなわち《全国農村工作会議紀要》(中発(1982)1号)を起草した。のちにこの文件は農村改革の最初の1号文件とよばれるようになった。この文件は間接的に、包産到戸をめぐる中国大陸における30年の長さに及んだ論争(争論)に終止符を打ち、包産到戸の合法性を正式に確立した。杜潤生は思い出して次のように言う。「この文件は中央に報告に送られ、鄧小平は見た後「完全同意」といい、陳雲は見たあと秘書を通じて「これは良い文件であり、幹部と群衆の支持(擁護)を得ることができる」と伝えてきた。

 間もなく胡耀邦はある会議で、農村工作について、中央は毎年一つの戦略的1号文件を必ず出すとした。これにより1982年から86年までの5年間、毎年中央の1号文件はみな農業問題に関するものであった。中央の部署として、杜潤生は毎年年初に調査題目を配置し、秋に総括、冬に起草、次年年初に発出した。この5つの1号文件は以下のとおり。

・《全国農村工作会議紀要》(中發(1982)1號)
・《中共中央關於引發〈當前農村經濟政策的若干〉的問題》(中發(1983)1號)
・《中共中央關於1984年農村工作的通知》(中發(1984)1號)
・《中共中央,國務院關於進一步活躍農村經濟的十項政策》(中發(1985)1號)
・《中共中央,國務院關於一九八六年農村工作的部署》(中發 (1986)1號)

1982年春、国家農業委員会が解消され、中共中央書記処農村政策研究室と農村農村発展研究センターが生まれた。この二つの主任となり、1989年まで務めた。彼はまた中共中央顧問委員会委員、全国人代財経委員会委員、中共中央財経指導小組成員などの職務を務めた。

 1989年六四事件が発生後、中央顧問委員会委員の李鋭、杜潤生,于光遠,李昌は学生運動を武力で弾圧(処理)することに反対したために、中央顧問委員会内で批判を受けた(受到整肅)。四人の党籍を奪うことを提案する人がいた。1990年8月、陳雲はつぎのように文書で指示し(四人を保護し 訳注)た。「彼ら四人の個人の意見は皆党内の会議上話したもので、組織原則への違反はない。我々の党内では過去このような教訓はあまりに多い。受け入れる(吸収)べきであり、四人を解除離党させるべきではない。」このため、四人はみな党籍を解除されて党を出ることはなかった。

2000年から雑誌「炎黄春秋」の顧問を務めた。

2013年7月18日の100歳のお祝い会には前国務院総理の温家宝、現職の中共常務委員の王岐山も出席した。

2015年10月9日 102歳で亡くなった。同日付け訃報

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