鄧子恢

毛沢東と劉少奇 対立の発端 1959-62

席宣 金春明《“文化大革命”簡史 第3版》2006年
魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年
陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年
黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等

 もともとは毛沢東の後継者として、毛沢東自身が認めていた劉少奇がなぜ転落したのか。1959年4月27日。全国人民代表大会の選挙において、劉少奇は中華人民共和国主

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胡耀邦 青年団中央委書記 1952-62

胡耀邦伝 第1巻 北京聯合出版公司2015年 227-320 (今回からこの本については2015年に3巻本として出版された北京聯合出版公司版を使う)
 陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015  190-282
 満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 212-262

青年団中央書記所第一書記に就任 1952年8月
 胡耀邦の処遇については、政務院建築工程部常務副部長というポストが

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鄧子恢  左傾と粛清事件  1930-31

1961年に出版された回顧録の中の一文であり、1930-1931年に生じた福建省(閩西)の中国共産党内にで起きた社会民主党狩りという、反対派粛清(肅反)事件を取り上げている。この事件は江西で起きたAB団事件とともに、多くの冤罪を生んだ。殺された被害者は6000人以上とされている。そもそも社会民主党もAB団も存在自体が疑わしいとされる。リンチや威嚇により自供を迫り、自供すれば直ちに処刑した。鄧子恢は

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杜潤生 (1913-2015)

wikipedea(2019年6月6日閲覧)
杜潤生(ドウ・ルンシェン 1913年7月18日ー2015年10月9日)元の名前は杜德,山西省太谷県陽邑村人、中国の経済学者。長い時間深く探求した(資深)農村問題専門家。「中国農村改革の父」の称号を得る栄誉に浴している。

生平
 早年生涯
 杜潤生は没落した富農家庭に生まれた。杜潤生の祖父、そして父は商人であり(經商)、のちに農民に転じた。5歳のとき母

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2.8 劉少奇の悲劇 1951-1962

写真は左が陳雲、右が劉少奇である。杜潤生の劉少奇についての記述は、参考になるが重要な1962年について簡略すぎて事実を見るに不十分である。そこで《劉少奇在建國后20年》から1962年1月の7000人大会から同年7月の北戴河会議までの経緯部分を以下の下半分に引用しておく。1962年という年は大躍進の失敗が明らかとなり毛沢東を権力から引きずりおろす言わば最後の機会だったが、結局そのようなことは誰も起こ

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2.7 生産力決定論と生産関係決定論

農村漁村文化協会訳pp.100-105 最初に書かれているのは鄧子恢と毛沢東の人柄。鄧子恢はあけっぴろげで近くづきやすい、思想的に無私で何も恐れず、毛沢東への個人崇拝はなかったとする。他方毛沢東は受け身になれない人間で、できないと言われるほどその意見を信用しなかったとする。

次に毛沢東の数字を割りあてる手法に言及が進む。この方法=攤派は、つとに戦争で使われた。いずれも悪い結果を残した。あとでケア

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2.6 小脚女人走路 1955

農村漁村文化協会訳p.90-100
毛沢東は1955年4月下旬に地方に下ってから、変心したとされ、北京に戻った5月以降は、合作社運動を加速することを周囲に一段と強く指示するようになった。いわば不退転の決意を抱え込んだ状態で、それを妨げているのが農村工作部だとみるようになったのではないか。
5月5日 中南海 毛沢東、頤年堂で鄧子恢に対し1953に大量の合作社を解散させた誤りの再来をしないように警告 

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2.5 合作社入社の強制 1955

農村漁村文化協会訳p.84
(食糧の買上げと合作社運動とが並行して進む中、農民たちの抵抗が家畜売却屠殺などとして表面化した。食糧を買上げる形で召し上げられた上に家畜を合作社に取られるぐらいなら、処分するといういうことだったのだろう。)
(1955年1月の党中央通知から)ここ数ケ月全党を挙げて力を集中して食糧の統一買上げ工作を進めていたため、多くの地域で新たに設立された農業合作社が崩壊したり、社員が

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社会主義改造加速と鄧子恢批判 1955

薄一波 若干重大決策于事件的回顧より 写真は鄧子恢のものである
p.230 1951年に山西発展農業生産合作社問題をめぐる争論が開始されてから、わが国の農業合作化の発展程度は比較的早かった。農業生産合作社の数量は、1951年12月に關于農業生產互助合作的決議 草案 が制定されたときには300あまりであった。1952年6月には3000余り、1953年12月に關于發展農業生產合作社的決議が正式に発布さ

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鄧子恢 農業の社会主義改造 1953年11月

(これは1953年11月2-3日、中共福建省第二回代表大会での鄧子恢の報告。新民主主義の時代は終わり、社会主義への過渡に移ったと明確に述べている。しかし同時にそれが毛沢東の認識の変化によるもので、毛沢東の認識は1953年の5月から9月にかけて次第に明確になったものであることも明記している。それに合わせて新民主主義が終わった時期を1949年10月の新国家成立時にさかのぼらせている。しかし変化の認識で

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