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胡耀邦 青年団中央委書記 1952-62

 胡耀邦伝 第1巻 北京聯合出版公司2015年 227-320 (今回からこの本については2015年に3巻本として出版された北京聯合出版公司版を使う)
 陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015  190-282
 満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 212-262
 (写真は心光寺の石仏。万治二年1659年の銘が読み取れる)

青年団中央書記所第一書記に就任 1952年8月
 胡耀邦の処遇については、政務院建築工程部常務副部長というポストが想定されていたが、たまたま青年団書記の馮文彬(フェン・ウェンビン)の異動の必要があり、劉少奇,毛沢東がいずれも賛成して青年団中央委員会書記となった。
 青年団は1936年に一度組織としては存在しなくなったが、1946年後半に青年団工作の再建の検討が始められ、試験的な経験を経て、1949年1月1日に中共中央は「中国新民主主義青年団の設立(建立)に関する決議」を発表している。それによれば、中国新民主主義青年団は中国共産党の政治指導のもと、確固として新民主主義のために奮闘する先進青年が集まった(群衆性)組織である。こうして1949年4月に中国新民主主義青年団の第一次全国大会が開かれている。その後、書記を馮文彬、副書記に廖承志、蒋南翔を選び、更に翌1951年には李昌、榮高棠,宗一平らが中央委員会書記に加わった。
 胡耀邦がこの中央書記所に加わったのは1952年8月。当時の組織数は730万で青年層の人口が1億とされるのに対し、遅れがあり今後1年内に300万増やすことが目標であった。胡耀邦は、馮文彬、蒋南翔、李昌らから説明を受けて、青年団の活動に党から離れて教育工作をする側面を問題点として、見て取った。その後、8月25日から9月4日の第一次第三回中全会で、中央書記所書記として、胡耀邦が選出された。彼のほかは、廖承志、蒋南翔、李昌、榮高棠、宗一平、劉導生、罗毅、許世平である。
 1953年6月23日から7月2日。中国新民主主義青年団の第二次全国代表大会が中南海懐仁堂で開催された。大会後半に入って6月30日、大会主席団メムバーを接見し、そこで「身体を鍛え、よく学習し、仕事に頑張る」ことを青年団の意義として説いた。この毛沢東の言葉は青年団の今後の工作の方向を示したものとして歓迎された。
 1953年7月初め 中国青年代表団400人を率いてルーマニア 第三次世界青年代表大会に参加。7月27日 ルーマニアに開催された世界青年代表大会で演説。
 1953年9月。中共中央は過渡時期総路線を発布している。相当長期間内に社会主義工業化を実現する。併せて、農業、手工業、資本主義工商業の社会主義改造を逐次実現する。中国革命は社会主義革命段階に入った。
 1954年初めには、北京で建設されていたソ連展覧館の工事に絡んで、青年突撃隊が出現して話題になった。胡耀邦もこのニュースに関心を示し、この青年突撃隊の経験を広げるべきだと発言している。1954年末までに(不完全な統計であるが)全国では650余りの青年突撃隊が組織され、1万2000人余りの青年が参加したとされる。
 1954年8月9日―10日。世界青年連第10次理事会 北京で開催
 1955年5月が中央農村工作部の「耕地の拡大と食料生産の増加に関する初歩意見」をまとめると、胡耀邦は、都市の学校卒業後失業している青年たちに、開墾事業に参加させることを提案している。これを受けて団中央では、意見書をまとめている。その効果であろうか。北京市郊外の楊華ら5人が、青年団北京市委員会に黒竜江省での開墾を志願してきた。このほか申込者から60人が選出され北京青年志願開墾隊が組織された。胡耀邦はこの5人と会い、志願が自発的かを確かめ必要なものを尋ねている。その後8月30日に1500人余りの人が集まった歓送大会が開かれ、開墾隊は北上列車に乗り込んでいる。
 胡耀邦が他の指導者と違うように思えるのは、その後も楊華らを気にかけたことだ。翌1956年胡耀邦は吉林省の視察に際して、黒竜江の開墾隊員と会っている。彼は現地に3日過ごし、開墾隊員と同じ家に寝泊まりしてともに食事をした。1960年、1961年には楊華に二度にわたり長文の手紙を送り励ましている。楊華はその後40年あまりの奮闘により、八十四万ムー規模の開拓を達成したとされている。
 同じとき、青年団上海市委員会では、江西省徳安県の開墾に従事する98名の志願開墾隊を組織した。1955年11月29日、開墾隊が入植してまだ40日のときに胡耀邦は現地を訪れている。隊員とともに簡素な食事をとり、勧められるまま「江西社」の題字を開墾隊に寄せている。この江西「共青社」との縁は、その後も続き、開墾隊員は北京に行っては、必ず彼を訪問した。1984年12月党の総書記に就任していた胡耀邦は、現地を訪れ、荒地だったところが都市に変貌しようとしていることを大変喜び、「共青城」と題字を改めている。このような姿勢は胡耀邦を特徴付けるものではないか?
  1955年8月から1956年9月。全国では20万近い青年が開墾事業に参加したとのこと。このほか、1956年1月に中共中央が出した「1956-1967年全国農業発展綱要(草案)」に呼応して胡耀邦が起こした植林(造林)活動がある。青年植樹の日を決めて全国で植樹活動を行ったり、青年造林活動を組織している。また積極的創造的に国家に貢献した青年を表彰する大会(全国青年社会主義建設積極分子大会1955年9月)も行われている。
 1956年6月末。団員は2000万名、全国青年の百分の十七。
 1956年9月。中国共産党第八次全国代表大会が開かれている。ここで97名の中央委員の一人に選出された。このとき41歳であった。陳雲、鄧小平に対し中央委員ではなく候補にすることを望む手紙を書いている。これに対して青年団から一人は中央委員に責任者を出す必要があると説得されている。
(陳利明は、この時期の胡耀邦の読書家としての側面を書いている。彼は時間があれば読書をしたとされる。胡耀邦は、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの全集のほか、四書五経、古今内外文学名著、二十四史を読み終えることを課題としてあげ、全体で5000万字読む必要があるとして、人は1日に1万読むとすれば、読み終えるには14年必要だとしている。陳は胡耀邦は、人に読書を薦めるだけでなく、自らそれを実践したのだとする。239-249)

反右派闘争への転換 1957年6月
 1957年2月 毛沢東「人民内部の矛盾を正しく解決する方法について」と題した講話を最高国務会議で発表。胡耀邦はこの講話を直接聞いている。
 1957年5月15日から27日。中国新民主主義青年団第三次全国代表大会。北京政協礼堂で開催。中国共産主義青年団に改名、過去の中国社会主義青年団、中国共産主義青年団、中国新民主主義青年団の代表大会の次数を受け継ぎ、次回を中国共産主義青年団第九次全国代表大会とすることを決定。
 1957年6月8日。中共中央「組織の力で右派分子の侵攻に反撃準備を」を発出。人民日報に「這是為什麽?」掲載。(政治闘争の開始は明らか。)
 1957年7月16日 1200名の代表団を率いてモスクワで行われた第六次連歓大会に参加。胡耀邦は9月中旬 ソ連から新疆まで戻り、ウルムチからの電話で「中国青年報」の編集部だけで17人もの右派を出したことを理解した。ただその後、北京に戻った胡耀邦ができることは限られていた。
 「中国青年報」総編集の張黎群(チャン・リーチュン)は新聞界の放談会で、今新聞は自身の声がなく上からの声を伝える(傳聲筒,留聲機,佈告牌)だけになっていると発言。これが毛沢東に伝わって問題になった。鄧小平から事情を聴かれた胡耀邦は軽い冗談だ(糊塗俏皮話)ととりなし、大事に至らなかった。(陳はこの決定を覆すため、胡耀邦が行ったことを詳しく書いている。青年団中央常務委員会決定の撤回について、と題された1958年1月付けの文書は、以前に出した決定は誤りであった、張黎群の政治名誉は回復されるべきだとした、文書である。それは張黎群の元の思想は問題ではない、言葉の一部が抜き取られて問題視されたものだ、という主張になっている。一度組織として出した決定を覆す、かなり困難なことまで胡耀邦はやっている。231-233)
 「中国青年報」副総編集の鈡沛璋(チョン・ペイチャン)は中央常任委員会拡大委員会で青年団はもっと大きな独立活動空間を持つべきだとの発言を捉えられて、右派とされた。胡耀邦はこれは内部の会議の発言だとして彼を守ろうとした。しかしその後、大躍進運動の中での再度の批判に際して、鈡沛璋を守りきれなかった。
 中国青年出版社社長の李庚(リ・ケン)は学識豊かであったが、反右派後期に上席の人への手紙の中で、出版事業でソ連体制を真似ることや一部の文化人の右派とすることに、異論を表明した。その結果、自ら右派となった。また自身の誤りを認めなかったので、「死んでも改めない」極右とされ、耐え難い鬱屈にあった(抑鬱不堪)。後に胡耀邦は名誉回復を図ったがむつかしかったので、今は生活と仕事に専心するように伝えた。
 青年団中央関係では50人余りが右派とされ、中右とされたものを加えると百人近かった。これらの人々は農村に労働改造に送られることになり、北大荒、峡北米脂に送られた。それに先立って、胡耀邦は1958年2月に彼らを送る座談会を行った。彼はその話を同志諸君(同志們)と呼び掛けてはじめ、改造が終わって帰ってきたら歓迎会をしようと、元気づけた。
 毛沢東は反右派闘争が激化する中で、八届三中全会で、八大決議中の主要矛盾の判断を覆して、無産階級と資産階級の間の矛盾そして社会主義道路と資本主義道路の矛盾が現在のわが国社会の主要矛盾だとした。胡耀邦はこの理論上の変化に困惑し、社会上右派とされるものがますます増えることに疑問を持ち始めた。
 1958年 大躍進時代に突入する。
 1958年後半 大躍進運動のマイナス面が次第に顕著になってきた。毛沢東も「共産風」がひどいことを認めて、冷静になること(壓縮空氣)が繰り返し主張されていた。
 1959年8月 胡耀邦は指令により廬山会議に参加する。彼が参加した時すでに会議は反右傾の流れが作られたあとだった。胡耀邦は彭徳懐が批判されることに釈然とはしなかったが、会議では短く主席の発言を擁護すると述べている。
 このあと再び高まった反右傾の動きは、再度青年団工作にも及んだ。大躍進運動の影響で幹部が減っているなかで、全国6023名の専門職幹部のうち重点批判の対象とされたものは、258名4.3%,  中央でも10人余りが重点批判の対象とされた。
 大躍進の運動の中で続けられた青年団の活動としては、マルクスレーニン主義、毛沢東の著作の学習運動がある。これは1958年から1960年にかけて繰り返し決議が出されている。
 大躍進がもたらした経済困難が明らかになるなか、胡耀邦は全国各地で実地調査を行っている。(当時、こうした行動はほかの党幹部もとっており、政策のどこに誤りがあるかを、党幹部が実地調査で明らかにしようとしたことがうかがわれる。また胡耀邦の仕事の比重もまた、青年団の問題から、国全体の政策の在り方を議論する方向に移っているともいえる。)
 1960年9月にはかつて統治した川北に。翌1961年春には河南内黄に。集団的統一分配経営管理は現在の生産力の水準、農民の思想覚悟の程度、基層幹部の経営管理能力に果たして適合しているかどうか。1961年5月5日に提出された報告書では、人民公社化後、農村の商業を、国営と供銷社の二本立てを国営一本にしたのは「害が多く利が少ない」と批判している。
 1961年秋には河北省唐県に入っている。当地が非常に疲弊していることを見た胡耀邦は、県委員会に対して個別経営法(田間管理包産到戸法)を制定し全県に広げることを指導している。食堂を解散し、労働したものに多くを分配する原則を守り、自由な市場を開放することなど。
   満妹は胡耀邦は胡耀邦を報告を直接報告を毛沢東に提出した。それは鄧子恢が「閩西農村調査報告」を中央に提出したのとほぼ同時で、これらの報告は包産到戸が実行可能な方法だとする点で基本思想は同じだったとしている。

湘潭(シアンタン)地委書記を兼任して赴任 1962年10月
 1962年1月。空前規模の工作会議が中央で開かれた。いわゆる7000人大会。ここで劉少奇がここ数年の問題は三分天災、七分人災といって、党の指導の問題を指摘。毛沢東自身も自己批判した。この7000人大会のあと、中央書記所は中央直属の国家機関の指導幹部が、現職のまま各地で、基層幹部を指導して農業生産の迅速な回復を進めるとの方針を決定した。胡耀邦もこの方針に応募した。中央はこれを批准して、胡耀邦を青年団中央書記所第一書記のまま、湖南(フーナン)省委員会書記所書記、兼湘潭(シアンタン)地委書記に任命した。工作重点は湘潭とされた。ただすぐには赴任していない。
 1962年7月25日開催の北戴河会議。当初この会議は食料や商業など実務的問題を討議するはずであった。しかし毛沢東は階級闘争から議題が離れることを許さず、会議は鄧子恢の「包産到戸」を自営主義(単干風)だと批判し、彭徳懐の上申を批判し、習仲勛が審査した小説「劉志丹」をあてこすり(翻案風)だと批判するものになった。このあと9月24日から行われた八届十中全会も、階級闘争を強調するものになった。
 9月27日八届十中全会閉幕の日に、胡耀邦は中国アルバニア友好代表団を率いてアルバニアを訪問。10月18日に帰国。このあとようやく湖南に赴任している。

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