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2.4 無駄話をして道理を説かない

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)写真は毛沢東 1954年1月。

再び批判を受ける
p.43 年間の大半の仕事が終わった、1953年10月から11月、中央農工部は第三次農業互助合作会議を招集した(その後慣例になり、毎年上半期に農村工作会議を開き、下半期には農業互助合作会議を開いた)。鄧子恢は南方視察のため参加しなかった。
 毛主席は会議前と会議期間中の報告を受けるとき、2回中央農工部を批判した。彼は言った。「むやみな突進(冒進)を急いで正そうとして、いつも同じ風を吹き続けて(一股風)失敗させている(吹下去了)吹き倒すべきでない農業生産合作社まで吹き倒している。誤って倒したものは、調査すべきだし(誤って倒したことが)明らかになれば、誤りが認められるべきだ。」
p.44 これでだけではなく、(毛主席は)一部の同志が「終日集まって無駄話をして道理を説かない、小さな良いことはしているが、困ったものだ」と批判した。(中略)「総路線」や「社会主義」に関係するものはなにもなかった。関係するものが良いもの(好事)であった。あわせて再度、鄧子恢の「私有財産の保持保証」と「四大自由」を批判した。
農村漁村文化協会訳p.81
(中略)主席は、「農民個人では増産に限界がある。互助合作を発展させなければならない(必須発展互助合作)」と重ねて言い

(1953年7月から10月)農村漁村文化協会訳p.81 もともと、この年の7月に華北局は、当面の互助合作運動は「互助組の発展と固めることを中心とするべき」ことを提起しており、またそれを党中央が批准して、全国の各省が参照するように10月4日に通知していた。この3(ケ)月のあいだに、中央農村工作部は、党中央の代わって中南局に回答する電報を起草し、その中で、農業生産合作会社の設立が早過ぎ、多過ぎるのはよくなく、地区委員会クラスにコントロールさせるべきだと提起していた。主席が報告を受けたときに出した指示は「このことに対処するために、運動の中心を互助組から主として農業生産合作社を発展させることへ変更しなければならないことを提起する」というものであった。さらに「数字を割りあてねばならない(要分配數字)。割当(攤派)だ。割当は強迫ではないし、命令主義でもない・・・」
(このような数値を割り振る毛沢東の仕方への批判はもう少し後でで書かれている。目標数値を出してそれを達成させる仕方は経営のやり方としても話題になるところだ。)
 (中略)
 鄧子恢は南方でこの情況を知ると、直ちに中央に手紙を送り、自己批判(自我批評)し、4月の第一次農村工作会議で提出された発展計画が(目標が)過度に低すぎたことを認めた。しかし「急いでむやみな突進(冒進)を正そうとして、いつも風を吹き続け(一股風)」たについては、なお自己批判(検討)しなかった。彼は運動の中心を「生産合作社」発展に転換(転倒)することには、別の意見であった。
     (中略)
 1953年末の毛沢東の決定にもとづき、互助グループ(組)を合作化を中心に発展させて合作社に改めることになった。新区の一二三(少数から気持ち多く)、旧区は数倍の規模で発展させることとし、少し作業ののち、1954年春には、もともと1万余りの農業社は7万余りにまで発展した。1954年末には60万社に達し、もともとの計画の数値である3万2000余りをはるかに超過した。
   農村漁村文化協会訳p.83 1954年の春、中央農村工作部は、全面出撃を避けるために、中央に報告書を書いて、合作化はその歩みを着実にするべきであり、各地は数字だけを追求してはならず、「発展を停止し、全力で固め」、まずこれら数万の農業生産合作社をしっかり運営することに努力し,真にモデル機能を発揮させ、真に自由意志の原則を保障しなければならないと建議した。1954年3月12日、中央はこの報告書を批准し、転達した。このため、この年の4月に開催された第2回全国農村工作会議では主要な目標はこれら7万の農業生産合作社をしっかり運営することとされた。1955年春まで、このような態度が保たれた。

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