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朱鎔基 1928-

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朱鎔基(1928-)朱鎔基は清華大学出身。朱鎔基は政治家の道を歩むが、大変途中で苦労した。北京大学に進んだ厲以寧(1930-)についてもここで扱う。厲以寧は株式制度の導入で功績。
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#朱鎔基

Walter & Howie(2011), Red Capitalism, John Wiley and Sons:2011

p.21 朱鎔基が進めた金融改革で驚くべきことは、包括的で、変革的であったことと、一貫性をもって進められたことだ。しかし、特別利益集団が支配的政治実体である中国共産党と共存している、中国の政治体制の分散的fragmented構造のもとで、見直し(follow through)に欠けることは不可避であったかもしれない。この構造を動かすのは、市場経済そしてその需給の法則ではなく、政治的エリートを構成する革命家族の特別な利権をめぐり構築された慎重にバランスをとったメカニズムであっ

Zhu Rongji 朱鎔基 1928-

朱鎔基 Britannica Kids  1990年代前半の中国経済成長の急速さは、もしもバブルが爆発したなら、経済的災難になりえただろう。そうならずに一貫して安定して繁栄したのは、敵を作ることを恐れない、エネルギッシュな現実主義者である、中国の副首相朱鎔基が行った、強固な経済政策のおかげであった。朱は1998年に首相になった。  朱鎔基は1928年10月20日に湖南省の長沙で生まれた。清華大学で電気工学の学生となった朱は、学部生の間に学生運動家になり、1949年に中国共産

朱鎔基の先祖と出生 1928-37

鄭義編著《朱鎔基台上台下》香港文化芸術出版社、2009年、pp.17-25(写真はJR水道橋駅)  湖南省城長沙を出て国道107号線を東に32キロ行くと長沙県安沙鎮和平村ー朱鎔基の故郷に達する。  ぬかるんだ(水泥)小径を進み、くねくねと(蜿蜒)山に分け入り、両脇に美しい青竹や花樹を見ながらさらに2-3キロ進むと棠坡(タンポウ)という地名に至る。朱氏一族の住居(祖屋)「恬園(ティエンユアン)」はかつてここにあった。「以前の大きな建物は、60年代にすべて壊してしまった。」と和

朱鎔基の学生時代(1)1935-43

 ここでは朱鎔基の小学校から初等中学までの記述を追う。日本軍が中国に本格的に軍事侵入してきた、困難な時期。環境は良くなかったはずだが。朱鎔基は懸命に勉強している。教育関係者や政府の努力で、国民政府の学校教育制度が、苦労して維持されていたことも読み取れる。そうした環境で朱鎔基は、何を考えながら一生懸命勉強していたのだろうか。鄭義編著《朱鎔基台上台下》香港文化芸術出版社2009年, 26-31 この皮膚は白く清浄で気質は穏やかな少年は人々に大きな印象を残している。彼は沈黙

朱鎔基の学生時代(2)1944-51

鄭義『朱鎔基台上台下』香港文化芸術出版社2009年、pp.31-56 から抜粋して翻訳,要約など(写真は東京復活大聖堂)。  1944年10月、初等中学を卒業した朱鎔基は、国立八中永綏(ヨンスイ)高中分校を受験して入学、湘西永綏で21ケ月の時を過ごし、1946年7月に離れた。長沙から一緒に行った学生は十数人とされる。永綏は現在の花垣県。湘西土家族苗族自治州西北角、高い山が連なり、地勢は険しい、朱鎔基はなぜ辺鄙な湘西で学ぼうとしたのか。これには当時の戦争の形勢が密接に相関し

朱鎔基 6年研鑽後放逐20年 1952-79

 鄭義編著『朱鎔基台上台下』香港文化芸術出版社2009年pp.56-75を適宜参照とりまとめ。(写真は東京ドーム外観) 既に述べたように朱鎔基はまず東北工業部に配属された。この時、東北局委員である経済学者馬洪と知り合っている。1952年12月東北工業部は解消され、国家計画委員会が組織される。当時、中央は地方幹部を中央に集める政策をとっている。東北局からはおよそ100人が北京に異動するが朱鎔基もその一人として国家計画委員会に異動し、1958年まで6年間、中国の工業化をこ

朱鎔基 国家経済委員会時代 1979-87

鄭義編著「朱鎔基台上台下」香港文化芸術出版社, 2009年、pp.75-78(写真は2020年2月22日 京都駅天井のトラス構造)  (1979年)国家経済委員会で朱鎔基は燃動局処長に任命されている。これは局長の下のポスト。ここで全体幹部大会で、処長クラスは皆保身のために一言も発しないところ、後ろの席の朱鎔基は早くも争うように立ちあがって(搶先站起來)、「一発ぶっ放したのである。」ある人は思い出して、朱鎔基という人はまことに「川や山は変わるとも、本来の性質は変わらない(江山易

朱鎔基 上海市長 1988/04-1991/04

鄭義編著「朱鎔基台上台下」香港文化芸術出版社2009年、82-126を一部翻訳、抜粋編集(写真は京都駅 2020年2月21日)  1988年に60歳近い朱鎔基が上海市長に就任した時、上海は発展が滞った局面にあり、同年のA型肝炎騒ぎ(甲肝風波)は彼の頭を大いに悩ませた。「上海A型肝炎はかからなければ死なないが、市長は疲れて死ぬこともありますよ。」と朱鎔基夫人勞安は言っている。  1987年末に中央は朱鎔基を上海に派遣し市委員会副書記に任命した。思いがけないことだったが、彼は

朱鎔基 上海市人民大会の講話 1988/04

在上海市九届人大一次会议上的讲话(1988年4月25日)。(朱鎔基、朱鎔基上海講話実録、人民出版社、2013年、pp.37-57。写真は4月25日当日、まさに講話を行っている朱鎔基)  同志の皆さん。大会(事務局の)ご配慮で、これから皆さんに自己紹介をします。(しかし)大会規定の時間を超えるかもしれません。もし(ここで)私が話さなければ、この関門を通ることができませんし、短時間では問題を出せませんし、私自ら十分説明したことにもなりません。  最初に私の略歴です。私が革命に参加

朱鎔基 テレビでの講話 1989/06/08

(朱鎔基、朱鎔基上海講話実録、人民出版社、2013年、pp.298-309 写真は1989年6月9日夜 上海市市内における朱鎔基)  全ての市民、同志の皆さん。皆さんこんにちわ。  ここ数日、私たちはみんな、上海がすでに危機的な局面に達したことを痛感しています。  6月4日以来、上海市のすべての交通は止められ、労働者は出勤できず、生産は減少しています。物資はそれでも充分にありますが、小売りにまで運送できず、市民生活には困難が生まれています。道路を進む人

朱鎔基 改革開放は上海発展の動力 1991/03/13, 15

朱镕基上海讲话实录,人民出版社,2013年,pp.590-594(この原稿は1991年3月13日および15日に朱鎔基が上海の改革の状況を説明した会話をまとめたもの。)(写真は1990年9月27日 上海市第九届人大常任委員会における朱鎔基。)  改革開放は上海発展の動力である。我々の改革の目標は今世紀末以前に、商品経済を計画する社会主義(社会主义有计划商品经济)を発展させる要求にもとづいて、中国が創造した、計画経済と市場調節とが結合した運行メカニズムを実現する(具体化

朱鎔基 質の管理と技術の監督について 1991/05/15

1991年5月15日 国家技術監督局が開催した第二次全国技術監督工作会議開幕時の講話。《朱鎔基講話實錄》人民出版社2011年, 第一卷pp.1~7(写真は1991年2月6日 上海の自動車工場見学に訪れた鄧小平を接遇する上海市長朱鎔基。この2ケ月後の4月に朱鎔基は国務院副総理に就任する。) p.1 国家技術監督局が成立して3年、大量の仕事が行われ、多くの成果が得られました。私が国家経済委員会で仕事をしている間に、国家標準局、国家計量局、国家経済委員会質量局の仕事を主管したこと

朱鎔基 情報産業発展の重要性を充分に認識せよ 1992/01/11

これは朱鎔基同志が郵電部で聞き取りの後の工作講話の一部分である。1992年1月11日。米国におけるインターネットの発展に注目し、国内の情報通信網の整備に力を注ぐ様子がうかがわれる。《朱鎔基講話実録 第一巻》人民出版社2011年pp.124-125(写真が澤蔵司稲荷慈眼院の空き地でみかけたドクダミの群生。) p.124 私は今一度述べる問題は、情報産業発展させることの重要性を、必ず十分に認識せねばならないということ、についてである。 現在は情報時代である。米国人さえ

朱鎔基 指導幹部は廉潔に公務を勤めよ 1992/01/11

領導幹部要廉潔奉公(1992年1月11日全国交通工作会議上講話)載《朱鎔基講話錄 第一卷》人民出版社2011年,pp.126-127 綱紀粛正の話だが、ここでは、幹部が地方や出先を訪問した時の、送迎、食事の供応、贈答、などが指摘されている(写真は1992年1月11日北京で開催された全国交通工作会議で講話を行う朱鎔基。同上書p.127より転載。)。 → 参照 習近平の反腐敗運動 2012~ p.126 私は精神文明建設問題を強化することを今一度強調したい。精神文明建設を上手