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朱鎔基の先祖と出生 1928-37

鄭義編著《朱鎔基台上台下》香港文化芸術出版社、2009年、pp.17-25(写真はJR水道橋駅)

 湖南省城長沙を出て国道107号線を東に32キロ行くと長沙県安沙鎮和平村ー朱鎔基の故郷に達する。
 ぬかるんだ(水泥)小径を進み、くねくねと(蜿蜒)山に分け入り、両脇に美しい青竹や花樹を見ながらさらに2-3キロ進むと棠坡(タンポウ)という地名に至る。朱氏一族の住居(祖屋)「恬園(ティエンユアン)」はかつてここにあった。「以前の大きな建物は、60年代にすべて壊してしまった。」と和平村村委員会の小宋は言う。
 和平村の村支書の黄自力は言う。「朱鎔基はここで生まれて、かつ幼年時をここで過ごし、9歳余りに達するまで棠坡にいたのさ。」朱氏一族の住居があったところは、現在は苗木を植える畑(苗圃)になっている。一面に紫色の××が植えられ、広々としたところ(開闊的地勢)でなお当時の規模を想像することができる。(中略)

 朱鎔基の父方の従兄弟(堂兄)の朱天池はかつて棠坡朱氏の歴史を整理した。彼の整理した資料によれば、棠坡朱氏は明太祖朱元璋の直系後裔であり、朱元璋の十八番目の庶子であり、洪武二十四年(1391年)始め岷王として封じられ、岷州(現在の甘粛岷県)を建国した。洪武二十八年(1399年)朝廷が削藩政策を実行しとき、岷王朱楩は西平侯汰晟が不法(行為)を告発したことで地位を奪われ庶人として福建漳州に流された。朱棣が帝を称してのち彼は爵位を回復し雲南に戻った。しかしこのあと永楽六年(1408年)にまた護衛,官属(官位であろうか)を失っている。明仁宗の康熙元年(1425年)に朱楩は雲南から湖南武岡に異動させられた。1450年に朱楩は亡くなり、諡號(死後の称号)を莊とし、史官は岷莊王と称している。
 岷藩の後裔が武岡に住んで100年余り後に、明末に李自成、張獻忠が反乱を起こすと、朱氏の家族は四散して逃げることになり、その一部は長沙棠坡に逃げ込んだ。朱天池(すなわち鎔垂)老人はかつて雲南,武岡などでこの歴史を調査したことがある。「動乱のあと、棠坡にまで逃げることができたのは数人に過ぎず、とても困窮しており、書を教えて生きることしかできなかった。」のちの階級分析の観点からは、このとき朱氏は窮迫を極め、赤貧といえた。その後の数百年をかけ彼らは何もないところから事業を起こす(白手起家)創業のプロセスをたどった。この期間において、朱家には続々と指導する人が現れた(有人入仕)。のちの歴史の記述からみると、朱子家族が貧しさを脱して豊かになったのは、朱鎔基の曽伯祖父朱昌琳(字雨田)のおかげである。朱氏の族譜の記載によれば、清道光二十八年(西暦1848年)、糧食は豊作で、穀物の価格は農民を傷つけ、千綫三石の安い値段になった、朱雨田がすべてを買い上げたところ、翌年は天災で、穀物の価格は十数倍に高騰し、朱家はこのあと「豊かになり衣食を憂うることはなくなり」、田産(所有する農地)を購入して広げ、家屋住居を広げるようになった。

 この歴史に書かれていないこと(軼事)について、長沙市の地方誌中にまた記載がある。朱雨田はこのあと、塩茶の転売、銭荘の開設,鉱業の開始を行い、ついに長沙でもっとも富裕な人物(首富)となり、朱家花園を建設した。「これに登ることで嶽麓湘江の美しいところを極めることができる、名は邦を表す」とされ、長沙園林の筆頭とされた。
 長沙市誌の記載によれば、朱雨林は富を得たあと、善行を好み(樂善好施)、長沙に保節堂、育嬰堂、施薬局、麻痘局を設け、壁を設け、学ぶものを支援し、河を新たに掘り、天災に遭ったものを助けた。地方誌は評価して、彼は「長沙の近代慈善事業の開創者(初めて行った人)」とする。
 朱氏の家庭はこのあと、富む一方であり、子孫は繁栄し、多いときには成人は百人を超えた。棠坡にあって朱家は困ったものを助けたために、今日に至っても同郷の人々の賞賛を得ている。63歳の村民王玉龍は記者に言った。あの時毎月何度も何度も(逢三逢八)朱家は倉を開けて貧しい者を助けた。また村で身寄りのない老人がなくなると、いつでも朱家が棺桶の材木を提供し、両側に石灰をつめて埋葬したものだ。
 村民彭建武のママは、当時、朱家が運営していた学校で学費免除で学んでいた。その村のすべての貧しい家の子女は等しく朱氏の族学(一族の学校)で学費免除で学んだ。彭建武は言う。解放後、村にいた朱家の人は乱暴されるようなことは全くなかったよ(沒有挨什麽鬥)。彼らは悪辣な地主でなく「良い地主」だったからね。
 今日、和平村は1200人あまり、戸数は300余り。しかし朱姓はすでにとても少ない。村支書の黄自力は言う。「朱家の子孫の人は基本皆(町へ)出てしまったのさ。」
 朱鎔基の父親の名は寛澍(クアンシュ)字(あざ)は希聖(シーシェン)。彼は腹に残された遺児で、父親は彼の顔を見ることなく(彼が生まれた時)すでにこの世になかった。朱希聖には6人の兄弟、それに姉妹が数人いて、順番は老嗎(一番年下?老疙瘩)であった。朱希聖は聡明この上なく、年少にして博覧群書。抱負をとても持ち、屈原の「世人がみな酔うなか我一人醒めている」から自ら「清醒上人」と号した。
 朱希聖が10歳のとき肺病にかかった。俗にいう「癆病(ラオ・ビン 結核のこと)」であるが、当時の医療条件の下ではこの種の病気は直すことができなかった。朱天池が記者に話したところでは、朱家の長老(長輩)は冲喜(チョンシー 重病人が出た場合、お祝い事をして邪気を払う習俗をいう)として娶らせることを決定した。
 朱鎔基の母親の張氏はこの状況下で、あわただしく朱家に嫁入りした。後の状況からすると、その時間は1927年末から1928年初めと推定される。朱天池が思い出すに、張氏は頭が一つ高く、「極めて俊秀」であった。
 冲喜は期待された効果がなく、張氏が懐妊のあと、朱希聖の体は、次第に弱り、子供が生まれるのを待たず、朱希聖は早逝してしまった。1928年10月1日、朱鎔基が生まれた時、母親の張氏も肺病に感染しており、我が子に乳をあげることができなかった。そのとき朱天池の妹朱荔裳(リーチャン)が生まれたばかり。伯父の寛浚(クアンジュン)は鎔基を家に連れ帰り、妻(余氏)に彼に乳を与えさせた。
 父の愛を知らず、母に寄り添うこともない朱鎔基であったが、朱天池の記憶では、当時、朱家の長老たちは、この父を失った孤児を格別にかわいがった。何人かの年下の従兄弟(堂弟)たちもまた親しかった。当時、朱氏の長老たちはみな京戲を歌うのが好きだった。歌うときは、伯父さんや従兄弟たちはみな集まり、二胡をひき、鑼鼓を鳴らし、良く修練された歌が披露された。耳にも目にもなじんだ結果(耳濡目染)朱鎔基はじめ従兄弟たちもまたいつのまにか通暁するようになり(無師自通)このわが国の文化(國粹)を深く愛するようになった。のちに総理になってからも、朱鎔基はなんどか、自身の京劇の修練された歌声を披露したほどである。
 朱鎔基の鎔堅兄さんとの感情は特によく、のちの交流の状況もこの点を証明している。1998年米国にいる鎔堅が90歳そして結婚60周年のお祝いに、朱鎔基は「金石は変化しない、100歳までも」と題辞を寄せた。祝賀のために朱鎔基が「誡題辞」を親族に送った唯一の書である。
 朱氏の大家庭は朱鎔基が生まれた時、すでに分家の準備をしていた。この後間もなく、朱寛浚は揚州に仕事に赴き、一家は東に移り住むことになる。(その後)抗戦前直前に帰ってくる。朱鎔基母子はその田産を得るのだが、「満伯」朱学方(ここで満伯と朱学方を呼ぶのは愛称であろうか。説明がない。三国志にいう満伯寧にひっかけているのかもしれない。福光)に管理は頼んだのであった。
  朱鎔基が9歳あまりのときに不幸が再び訪れる(1937年頃だろうか。この記載の仕方では正確にわからない。福光)。(結核に)感染して久しかった母親の張氏が亡くなった。両親とも亡くなった朱鎔基は孤児となり、朱学方が扶養の重責を担うことになった。
(朱鎔基が朱元璋につながる名門の出身であること。その先祖は地主ではあるものの自力で豊かになったもので、豊かになったのち善行を重ねたこと。朱鎔基が両親を亡くしたいきさつは悲劇に満ちているものの、一族の人々の愛に包まれて育ったことなどがわかる。朱鎔基は自らの先祖に朱元璋がいることを自ら決して明かさなかったとされる。また総理現職の間は親類との接触を避けたとされる。清廉に徹していたことが伺われる。福光)

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