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朱鎔基 上海市長 1988/04-1991/04

鄭義編著「朱鎔基台上台下」香港文化芸術出版社2009年、82-126を一部翻訳、抜粋編集(写真は京都駅 2020年2月21日) 

 1988年に60歳近い朱鎔基が上海市長に就任した時、上海は発展が滞った局面にあり、同年のA型肝炎騒ぎ(甲肝風波)は彼の頭を大いに悩ませた。「上海A型肝炎はかからなければ死なないが、市長は疲れて死ぬこともありますよ。」と朱鎔基夫人勞安は言っている。
 1987年末に中央は朱鎔基を上海に派遣し市委員会副書記に任命した。思いがけないことだったが、彼は翌年上海で開かれた(上海市の?)九届人代会議で江沢民に代わり上海市長に任命された。このとき朱鎔基の名前は中共中央委員会候補委員名簿にあるだけで、年齢はすでに60歳近く、もし上海市長を一期務めれば5年後65歳、ちょうど中央の規定で省部クラスの幹部の退職年齢であった。
 それゆえ人々はこれは朱鎔基の人生の起伏の最高峰だと考えた。
 (この市長選のとき提案があり、投票選出に先立って候補者に代表者たちのまえで話をさせてはとの提案があった。1988年4月24日、投票に先立っての候補者に話をさせる提案が認められた。このとき朱鎔基は候補者一人15分とされていた時間を、会場の同意を得て実に110分の演説を行い、しかも聴衆に深い印象を与えた。彼は幼年からの自身の経歴を述べ、右派とされた過去を隠さなかった。また上海市政府を高効率で清潔(廉潔)とするとして、会場の気持ちをつかんだ。上海の発展(振興)のために誠実に(兢兢業業地)働く、誠実にそして全力を出し切る(鞠躬盡瘁,死而后已)と述べると、人々は感激して立ち上がり長時間拍手を送ったとされる。)
         → 朱鎔基「上海市人大での講話」1988年4月25日
 (市長に就任した朱鎔基が最初に取り組まざるを得なかったのが、同年のA型肝炎騒ぎだった。この時彼は、医療資源を動員するとともに、公衆に真相を知らせることで、人々の不安おさえた。テレビなどを通じて、予防知識を伝えることにも努め、1988年夏に事態は沈静化にむかった。
 おそらくもっとも困難だったのは、六四事件への対応であった。学生たちなどによるデモ、バリケードの構築。市内の混乱。そして緊張は北京からの学生が電車で上海に到着した時に生じている。混乱の中で、その電車が軌道に横たわっていた学生を轢く事故が発生。死傷者が出た。怒った学生が、列車に放火した。郵便車に積まれていた天安門での虐殺に関する情報の隠滅を警察側が図り、変装した警察側が郵便車に放火したという説もある。朱鎔基は、学生に自制を促し不法行為に対しては厳しく警告している。他方警察には忍耐(忍讓)を求め、軍隊はもちろん、武装警察の使用を行わなった。6月8日の以下のテレビ演説は、人々の心を落ち着かせる効果があったとされる。「皆さんは形勢を見誤ってはなりません。簡単に世の中がひっくり返ると思い違いしてはなりません。」「皆さんの愛国の熱情を今も私は良いものだと思っています。しかし皆さんの行動は皆さんの願望の真逆に向かうものです。」「最近北京で発生したことは歴史的事実(歴史事実)です。歴史的事実は誰も隠すことはできません。事実真相は将来必ず明らかになります。」六四事件の惨劇についての朱鎔基の気持ちは事件発生から数ケ月たった9月30日の夜、ある工場の国慶節を祝う夕べに招かれて彼が「甘露寺」の一節「勸千歳殺字休出口」を歌ったところに現れているという。これは無用の殺戮を戒め、亡くなった人を悼む意味が込められている歌のようだが、残念ながら京劇の教養がない我々日本人には、この歌の歌詞からすぐにはそうした含意があることを理解できないところだ。)
 (六四事件後、朱鎔基は中国への投資が落ち込むなかで浦東開発の先頭に立った。上海市長は1991年4月まで務めた。1992年10月には、鄧小平の推薦で中央政治局常任委員となった。中央委員候補委員から飛び級だが、中央での経済担当者としての采配が、鄧小平に期待されたということであろう。1993年には中央人民銀行長に自ら就任。1994年の銀行改革、分税制。つぎに国務院総理としては1988年3月から2003年3月まで。1998年の東南アジア金融危機への対応。その後の銀行不良債権問題への対応。2001年のWTO加盟。すべて朱鎔基のもとでのことであり、中国の現在の経済システム確立に彼の役割は大きい。まぎれもない功労者だが、ただ中国経済の負の側面について責任を問う声もないわけではない。)

#朱鎔基

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