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朱鎔基 上海市人民大会の講話 1988/04

在上海市九届人大一次会议上的讲话(1988年4月25日)。(朱鎔基、朱鎔基上海講話実録、人民出版社、2013年、pp.37-57。写真は4月25日当日、まさに講話を行っている朱鎔基)
 同志の皆さん。大会(事務局の)ご配慮で、これから皆さんに自己紹介をします。(しかし)大会規定の時間を超えるかもしれません。もし(ここで)私が話さなければ、この関門を通ることができませんし、短時間では問題を出せませんし、私自ら十分説明したことにもなりません。
 最初に私の略歴です。私が革命に参加したのは比較的遅く、経歴は比較的簡単です。私は1928年10月に長沙で生まれました。中学はすべて湖南省で学びました。1947年に湖南省立一中を卒業し、同年上海で清華大学の入試に合格し、電気機械系に進学しました。大学入学後学生運動に参加し、1948年冬中国共産党の地下党が指導する中国新民主主義青年連盟に参加し、1949年中国共産党に加入しました。1951年に清華大学を卒業後、東北人民政府工業部計画処に配属され、生産計画室副主任を担任しました。当時の計画処処長は最初は柴树藩(チャイ・シューファン)同志で、そのあとは袁宝华(ユアン・バオホア)同志でした。1952年に東北人民政府が廃止されたあとは、私は马洪(マー・ホン)同志、安志文(アン・ツーウェン)同志たちが率いる国家計画委員会に行きました。それは1952年11月のことです。国家計画委員会において電力管理を始めました。1954年には工業総合局に行き総合処で仕事をしたあと、国家計画委員会副主任张玺(チャン・シー)同志の秘書を担当しました。その後、张玺同志が癌を患ったため、私は同時に国家計画委員会機械工業計画局総合処の責任者を務めましたが、1957年になり「大鳴大放」そして反右派(運動)に遭遇しました。「大鳴大放」の時、同志たちは言いました。君は党の指導者の秘書なんだから、君が党組織に意見を提出するのでなければ、一体誰が出すというんだ?私に必ず(意見を)出せと。そこで私は局内で3分話しました、遠慮なく。10月前には誰もがみな、私の出した意見は悪くないと感じたのですが、10月以後は君の意見は再度検討の必要があるとされ、1958年1月に私は右派に区分されたのです。しかし私に対する処理はなおとても寛大でした。私は国家計画委員会の指導者や同志たちが、わたしのことをよく理解していたからだと思っています。そのため、私は副処長の職務を解職され、行政(職)を2階級おとされ、党籍を失ったあと、なお国家計画委員会の仕事にとどまったのです。それから2年、私は国家計画委員会老幹部の夜間(业余)教員として、数学理科化学を教え、その後復職して、国家計画委員会国民経済総合局工業処で働きました。私は国家計画委員会の党組織の私への配慮にとても感謝しています。私を下放することなく、私に党の仕事を継続する機会をいただいたことを。文化大革命のとき、私は国家計画委員会の農場で5年働きました。この5年は私にとってとても大きな教育でした。私たちは国家計画委員会の幹部でしたが、一つの集団農場にいたこと、結局そこは農村で、農村というものを理解し、労働の体験も十分しました。この5年私はなんでも経験しました。小麦、コメ、綿花のタネをまき、牛羊を放牧し、豚を養い、炊事係をしました。1975年のあと、私は北京に戻り、当時私は国家計画委員会に関係者ということで、石油化学部菅道局電力通信工程公司に配属されました。私は作業グループを率いて、電線柱を登る訓練から始めて、22万ボルトの高圧線と11万ボルトの変電所を設置できるまでになりました。この2年余りもまた、私には現場の仕事を経験する貴重な機会となりました。1978年に马洪同志は、私を探しだして中国社会科学院工業経済研究所の研究室主任としました。党の十一届三中全会の直前に、私を右派に間違って区分した問題が正され、私の党籍は回復され、職務も回復しました。このとき袁宝华同志は国家経済委員会副主任、康世恩同志が主任を担当しており、わたしに国家経済委員会に戻ることを求めました。国家経済委員会は国家計画委員会から分かれたものだからです。2982年に新しい国家経済委員会が成立したあと、私は経済委員会委員兼技術改造局局長を担当、1983年に経済委員会副主任、1985年に党組織副書記、常務副主任をそれぞれ担当し、今年の初めに上海にきたところです。これが私の簡単な経歴です。
 二点目は、同志の皆さんは私の業績を話すようにとのことです。これはお話づらいことです(难以启齿),上手に話せるかどうか。もちろん私は30年余りの仕事をしてきたなかで、1957年以後多くの挫折を経験しましたが、仕事の上で組織における私に対する評価はそれでも悪いものではありません。私の特徴、信条とすることは独立思考です。私が心の中でどうなんだろうと考えたこと、私が考えるのはそれをそのまま話すべきだと。私は孤児です。私の両親はとても早く亡くなりました。私は父に会ったことがありません。私には兄弟姉妹がいません。私は1947年に党にたどり着きました。党は私の母だと感じました。私は全身全霊、党を私の母のように扱います。ですから私は話をするとき、なにも隠すこと(顾忌)はありません。党の事情については助けになると考えたことを話します。たとえ私を誤って処分したことがあったとしても、私も争いません。党の十一届三中全会の直前、私の政治生命は回復され、同時にこう言っていいと思いますが私の政治青春がほとばしりました。私は常に我々の党の正確な対応を得られると信じています。私はこれが私の一つの特徴だと、あるいは私はこのように努めるものだということができます。
 三点目は自己評価です。私が思うに上海市長に私をするのは最良の人選ではありません。私にはたくさんの欠点があります。私の何人かの前任者に比べ多くの点で、とりわけ江沢民同志と比べると本当にひどいものです。3点話しましょう。
 第一に、私はただ指導機関での仕事の経験があるだけです。現場での仕事の経験がありません。先ほど国家計画委員会で25年、国家経済委員会で10年仕事をしたと話しました。現場の仕事は管道局で本当に短い期間しただけで、工場長をやったわけでも、区県の指導をやったわけでもありません。わたしはまた農村の現場からきたけでもなく、人民の苦労がよくわかっていないのです。これはわたしのおおきな弱点で、今後この方面で誤りを犯す事を恐れます。
 第二は、私はただ中央工作の経験があるだけで、地方工作の経験がありません。私は地方工作をすることなく、ずっと北京にいました。ですから上海に来ましてこの3ケ月白髪が随分増えました。江沢民同志は1年以内に私の頭は真っ白になると予言しています。これは彼の経験で、私もすでに実感しているところです。仕事は確かに複雑で、たしかにむつかしい。ですから、江沢民同志がいつも彼の神経は緊張状態にあると話していたことを、私は今経験しているところです。
 第三は私の性格はとてもせっかちで、指導者の忍耐にかけ、仕事の成果を急いで求めるところがあり、下の幹部に要求がやや急で、きびしく批判するところがあります。この点で私は江沢民同志をよく学ぶべきです。宋平同志は私が上海に赴任する前に私と話をして、あなたが幹部に厳しいのはあなたの欠点ではないが、他人を批判するときに人を傷つける必要はなく、あまりにもとげとげしく話す必要はない。これはすべて意味の深い言葉(语重心长)です。私の欠点に話が及んだとき、彼は、あなたは周総理を学ぶべきだ、同志を批判したあと、ほかの人の関心に対して(自ら)批判すると感じさせること。確かにこのような人格を持つ指導者は少ないが、しかし私は同志の皆さんが私を監督して糺してくださることを希望したい。実際のところ容易ではありませんが、私は進んで自身の欠点を改めねばなりません。
 (中略)
 今日はここまでしか話すことはできません。(投票結果?の)報告はすでに拝見しました。私に対する信任に私はとても感動しています。同志のみなさんの私への支持に、とても感謝しています。しかし同志の皆さんの期待に私は任務の大きく重いことを感じます。私は今後、党中央、国務院、上海市委員会と江沢民同志の指導の下、着席されている人大代表と全市1200万余りの人民の力をお借りして、誠心誠意全力で仕事をする覚悟です(兢兢业业,努力工作,鞠躬尽瘁,死而后已)。

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