夏目漱石「それから」 相手を遣り込めるのを

父は益(ますます)機嫌をわるくした。代助は人と応対しているとき、どうしても論理を離れることのできない場合がある。それが為め、よく人から、相手を遣り込めるのを目的とする様に受け取られる。実際をいうと、彼程人を遣り込める事の嫌いな男はないのである。

「何も己(おれ)の都合ばかりで、嫁を貰えと言ってやしない」と父は前の言葉を訂正した。「そんなに理屈をいうなら、参考の為、云って聞かせるが、おまえはもう三十だろう。三十になって普通の者が結婚をしなければ、世間ではなんと思うか大抵わかるだろう。そりゃ今は昔と違うから、独身も本人の随意だけれども、独身のために親や兄弟が迷惑したり、果ては自分の名誉に関係するようなことが出来(しゅったい)したりしたらどうする気だ」

代助はただ茫然として父の顔を見ていた。父はどの点に向って、自分を刺した積りだか、代助には殆ど分らなかったからである。しばらくして、

「そりゃ私のことだから少しは道楽もしますが・・・・・・」と云いかけた。父はすぐそれを遮った。

「そんな事じゃない」

二人はそれぎりしばらく口を利かずにいた。父はこの沈黙を以て代助に向って与えた打撃の結果と信じた。言葉を和らげて、

「まあ、よく考えて御覧」と云った。代助ははあと答えて、父の室(へや)を退ぞいた。


夏目漱石 「それから」

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