太宰治 このごろ私は、誰にでも底知れぬほどの軽蔑されても至当だと思っている

このごろ私は、誰にでも底知れぬほどの軽蔑されても至当だ思っている。芸術家というものは、それくらいで結構なんだ。人間としての偉さなんて、私には微塵もない。偉い人間は、咄嗟にきっぱりと意志表示が出来て、決して負けず、しくじらぬものらしい。私はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、そうして深夜ひとり寝床の中で、ああ、あの時には言いかえしてやればよかった、しまった、あの時、颯っと帰って来ればよかった、しまった、と後悔ほぞを噛む思いに眠れず転々している有様なのだから、偉いどころか、最劣敗者とでもいうようなところだ。先日も、ある年少の友人に向って言った事だが、君は君自身に、どこかいいところがあると思っているらしいが、後代にまで名が残っている人たちは、もう君くらいの年齢の頃には万巻の書を読んでいるんだ。その書だって猿飛佐助だの鼠小僧だの、または探偵小説、恋愛小説、そんなもんじゃない。その時代においていかなる学者も未だ読んでいないような書を万巻読んでいるんだ、その点だけで君はすでに失格だ、それから腕力だって、例外なしにずば抜けて強かった。しかも決してそれを誇示しない、君は剣道二段だそうで、酒を飲むたびに僕に腕相撲をいどむ癖があるけれども、あれは実にみっともない。あんな偉人なんて、あるもじゃない、名人達人というものは、たいてい非力の相をしているものだ、そうしてどこやら落ちついている、この点においても君は完全に失格だ。それから君は中学時代に不自然な行為をした事があるだろう、すでに失格、偉いやつはその生涯において一度もそんな行為はしない。男子として、死以上の恥辱なのだ、それからまた、偉いやつは、やたらに淋しがったり泣いたりなんかしない、過剰な感傷がないのだ、平気で孤独に堪えている。君のようにお父さんからちょっと叱られたくらいでその孤独の苦しさを語り合いたいなんて、友人を訪問するような事はしない。女だって君よりは孤独に堪える力を持っている。女、三界に家なし、というじゃないか、自分がその家に生まれついても、いつかはお嫁に行かなければならぬのだから、父母の家もいわば寓居だ、お嫁に行ったって、家風に合わなければ離縁されることもあるのだし、離縁されたこいつは悲惨だ。どこにも行くところがない。離縁されなくたって、夫が死んだら、どうなるか、子供があったら、まあその子供の家にお世話になるということになるんだろうが、これだって自分の家ではない、寓居だ、そのように三界に家なしと言われる程の女が、別にその孤独を嘆ずるわけでもなし、あくせくと針仕事やお洗濯をして、夜になると、その他人の家で、すやすやと安眠しているじゃないか、たいした度胸だ、君は女にも劣るね、人類最下等のものだ、君だって僕だって全く同等だが、とにかく自分が、偉いやつというものと、どれほど違うかということを、いまのこの時代に、はっきり知って置かないといけないのではなかろうかと、なぜだか、そんな気がするのだがね、などとその自称天才詩人に笑いながら忠告を試しみたこともある。このごろ私は、自分の駄目加減を事ある毎に知らされて、ただもう興醒めて生真面目になるばかりだ。黙って虫のように勉強したいなどというてれくさい殊勝げの心も、すべてそこのところから発しているのだ。先日も、在郷軍人の分会査閲にに、戦闘帽をかぶり、巻脚絆をつけて参加したが、私の動作は五百人の中でひとり目立ってぶざまらしく、折敷さえ満足に出来ず、分会長には叱られ、面白くなくなって来て、俺はこんな場所ではこのように、へまではあるが、出るところへ出た相当の男なんだ、という事を示そうとして、ぎゅっと口を引き締めて眥を決し、分会長を睨んでやったが、一向にききめがなく、ただ、しょぼしょぼと憐憫を乞うみたいな眼つきをしたくらいの効果しかなかったようである。
(*注 この調子でまだまだつづく)

太宰治 「鉄面皮」

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