宗教の事件 15 「オウムと近代国家」より 三島浩司

●オウム弁護の世間の風当たり ・・・・・・オウムを弁護するにあたって、市民やマスコミからの反応、風当たりはやっぱりもの凄いもんなんでしょうが、具体的にどういうかたちを取ってくるのか差し支えない限りで教えてください。

 三島 なかなかにきついもんですな。まず、市民ということでいえば、事務所や自宅にようけ電話がかかってくる。それも、たいていは抗議電話。「なんでオウムなんか弁護するんだ」「それでも、お前は日本人か」という類ですね。居留守を使うのは嫌だから電話には全部出るけれど、面倒なもんです。 昨日も中年男からかかってきて「一言ききたい」というんだ。またかと思って「ええかげんにせえよ」と声を荒げた。しかし実は、この男はわたしがボランティアでやっている死刑囚の再審事件の関係者で、再審のことで電話してきたわけだ。で、私がオウムの弁護をやっているのがわかったらしく、急に見下げ果てたといった調子で「オウムの弁護なんかやってるんですか」と言う。

 ・・・・・・ああ、冤罪事件を手懸けるような正義・人権の弁護士さんが、なんでオウムなんかやるんですか、と態度が激変したわけだ。 三島 そう。こうなると、こっちはムカッとくるわけだ。で、「だからこそやるんだ。おまえのほうが、よっぽどおかしいやないか。あんたの考えやと、人権の保障はオウムについてはその限りにあらずということになるけど、どこにそんなもん書いたんねん」というてやった。相手は、びっくりしよったけどね。それこそ党派性ではないか。呉智英さんがシンポジウムで言っていたように、結局、きれいごとで「人権の普遍性」を云々するけれど、本音は自分らのための信仰、表現の自由なんであって、結局は自分たちから見た正義を弁護するのが正しいといっているだけじゃないか。だから、それは単なる党派の正義にすぎないじゃないか、と言うんですよ。 私はおなじ三島でも、三島由紀夫じゃないから知行合一どころか知行ボロボロの男なんですけど、それでも男の子だから、どんな人間にも正当な方法手続きを受ける権利があると日頃言っておきながら、依頼を受けて「ちょっと待ってください」というのはやはり恥ずかしい。それだけの話なわけだ。これはもう、弁護士の看板を掲げている以上、仕方がない。

 ・・・・・・マスコミはどうですか。ワイドショーとか、見ててもかなり無茶苦茶らしいということは推測できるんですが、あれは現場の連中はどこまで確信犯でやってんですか。 

三島 自分らなりに正義だと思ってるんでしょうね。岐部の判決の日にも、地裁前でテレビが勝手にわたしの顔を映しまくったね。私みたいなこんなおっさんを映してどうなるものでもないと思うのだけど、あれはひどいもんだ。 それに、テレビの連中の報道姿勢というのがよくわからん。こちらに取材にこないのに、いろいろ報道されてしまう。私の知っているジャーナリストたちは、報道する際は自分で直接取材する。それがあたりまえですわな。オウム報道で活躍しているオウム評論家連中にも、あることないこと言われている。しかし、一度も取材にきたことがないんだ、江川紹子さん以外は。取材の申し込みがあれば、応じるのに、彼らも所詮は商売だから、それぞれのスタンスがあるのやろうね。まあ、私も誉められるような人間でもないし、いろいろ言われるのは仕方がない。むしろ、弁護士という生業を世間の人にわかってもらうのには、いい機会かもしれないと思っているんですよ。 だから、私はマスコミと喧嘩しているわけではない。言いたいことは言うけどね。「あんたらは商品を売る立場の人間なんだから、売れなきゃ話にならないよ。だけど、後が続かないような商売してもしょうがない。今日食べて、そのときは腹ふくれても、次の日に腹こわして損害賠償されたらどうにもならんやないか。継続的に利益を生み出せる商品を考えろよ。ちょっとは身になる商品を売るほうがいいんやないか」とかとね。 

・・・・・・それってかなり重要な視点ですよ。今のマス・メディアの生産点には自分たちもまた一つの商売だという認識はかなり薄くなっているように感じるんです。呉智英さんでも橋爪大三郎さんでも、われわれ若い世代が共感を覚えるところがあるのは、思想的な立場とはまったく別に、いい意味の商売感覚があるからなんですよ。つまり商売感覚があり、市場があいだに介在し、言説が読まれ、そこで読者が見える。関係を意識する。ところが、そういう商売感覚のない書き手は読者の顔が見えないんですよ。自分が正しいと思い込んでいることをただそのまま書いたり言ったりしてたら、それだけで読んだり聞いたりしてもらえると思ってる。そんなわけあらへん。 

三島 そんなど厚かましい。読者がえらい迷惑だ。

 ・・・・・・のはずなんですけど、その迷惑のはずのものを喜んで読んだり見たりする世間も一部には頑固にあったりする。どんなに正しいと思われることでも、いったん表明してしまえば市場の中で流通する商品としての言説にすぎない。その部分をまっすぐクリアしないことにはどんな正義も現実のものになるわけないんだ、といういい意味の商売感覚が呉さんや橋爪さんにはある。三島さんにもある。だけど、メディアの生産点にそれがどうも乏しい。一番先端で情報商品をつくっている連中が、自分たちの依拠するその商業論理を自覚してなかったりする。ただ、自覚のないままに商品をつくる手練手管だけはついてたりするから始末に悪い。

 三島 弁護士だって、その点は同じなんですよ。私の事務所のボスが面白い男でね、持論は「弁護士は芸者だ。お座敷かかるあいだが花。花代は心付け」 

・・・・・・あ、いい、それは凄くいい。 三島 でも、そのボスは刑事弁護させたら凄いんですよ。早大闘争で逮捕された呉智英さんから東大闘争の時の安田講堂での機動隊との攻防で逮捕された被告団まで、金にもならん弁護を誠実にこなすし、何よりも刑事被告人の心を一言でとるしね。

 ・・・・・・その労力を支える何か、信念でも啓蒙意識でもなんでもいいんですが、「世のため人のため」というのがあるんですかね。 三島 ええ意味であるんでしょうね。しかし、基本は無法松でしょう。実は、ボスが一番尊敬している人物は無法松なんですよ。だから、大月さんが最近出版した「無法松の影」もさっそく買い込んで、一生懸命読んどる。 

・・・・・・それは誠にかたじけのうございます。 三島 わたしらの業界にはそういうけったいな人間も結構多くてね。損得抜きで被告人のために走りまわる者がまだけっこういる。それが警察と市民社会との間の緩衝剤に少しはなっているんじゃないのかな。 

 (つづく) 

 「オウムと近代国家」(南風社)

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